わにぞう日記
日常のなかでいろいろと見たり考えたりします。でも、多くは忘却してしまいます。何かの時に思い出せるように。交流の中で意見が深められたり変わったりするのもおもしろいですね。
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教育勅語はなぜ教育の要諦として妥当でないのか
大切なことは、戦争を含む国の政策の大義や妥当性を自覚的に判断する知性を育てるところに教育の重要不可欠な機能があることを認めるかどうか。教育の目的には政権担当者の行動を醒めた目で判断し、その適否をみきわめようとする知性を育てることを重要な部分として含む。その意味で教育勅語が教育の要諦として妥当かどうか、と問えば、妥当でないと答えるしかないだろう。少なくとも国家の政権担当者の行動を主権者としてチェックする能力の養成を欠いている。深刻な欠陥だと考える。また、各種の徳目を重視する理由を問うことを禁じる構造も教育の方法にふさわしくないとわにぞうは考える。
こういう私(わにぞう)の立場は、例えば皇国論者(天皇を日本の文化的アイデンティティとして神聖ととらえる立場、輪に増の立場とは異なる)のうちのある種の者たちによっても合意可能なものだろう。ある種の皇国論者とは、立憲主義を認める皇国論者と言い換えることができるかもしれない。この種の皇国論者は、政権担当者が天皇を辱める政策を取っているか否か、という立場から、政権担当者の行動を醒めた目で判断し、その適否をみきわめようとする知性を重視する。また、各種の徳目も、具体的事例に対してそれ自体として自明な回答を与えるものではない以上、社会と文化を構成する一員として、その徳目が意味する倫理的基準を自らのものとしてとらえ返す能力の育成が教育の機能として必要だとするなら、教育勅語のやり方は極めて権威的な押し付けであって、教育の要諦にはなじまないと考える皇国論者も多いのではないだろうか。

わにぞうの立場からすれば、天皇を神聖とする教育勅語はそもそも近代の教育理念として認めがたいが、皇国論者の立場からも教育勅語を「教育再生」の精神的基盤とするような立場には、強い反発があっていいと思う。
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