わにぞう日記
日常のなかでいろいろと見たり考えたりします。でも、多くは忘却してしまいます。何かの時に思い出せるように。交流の中で意見が深められたり変わったりするのもおもしろいですね。
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靖国問題(高橋哲哉著)雑感
明快な本である。そしてその明快さ故に割り切れなさを感じる自分を見いだす。この本を評したページに接したので、ここでの引用に即して割り切れないところがどこにあるのかを述べておきたい。読み終わって日にちがたっているし、本が手元にないので、全面的な感想はまたの機会に。

国家が「国のため」に死んだ戦死者を「追悼」しようとするとき、その国家が軍事力をもち、戦争や武力行使の可能性を予想する国家であるかぎり、そこにはつねに「尊い犠牲」、「感謝と敬意」のレトリックが作動し、「追悼」は「顕彰」になっていかざるをえない(p.205)


したがって、

非戦の意思と戦争責任を明示した国立追悼施設が、真に戦争との回路を経つことができるためには、日本の場合、国家が戦争責任をきちんと果たし、憲法九条を現実化して、実質的には軍事力を廃棄する必要がある(P.220)


と論じる。
明快なのだが、自分はいつもこのあたりでの高橋氏の議論に、危ういものを感じるのだ。
国家主権を守るために犠牲者を生む可能性をあらかじめ否定するならば、この議論は明快に成立する。しかし、ならばある国に侵略を受け、それに対する防衛戦争を戦った国々はどうだろう。ここにもやはり「国のため」に死んだ戦死者は生まれうるし、それは「尊い犠牲」とされるだろうし、何らかの「顕彰」につながるであろう。こういう顕彰は否定されるべきものなのだろうか。
国、あるいは民族の主権を守るためには、軍隊は必要悪だという議論は存在する。そして世界のほとんどの国家がその必要悪を保有しているという現状を考えれば、この議論は強力な根拠を持つ。
本質論は一つにはまさにそこにあるのであって、日本が戦力を放棄したという選択を前提とすることになると、結局この本質論を端から回避することになる。これでいいのだろうか? よりつっこんでいえば、憲法9条の規定に「よりかかった」議論なのではないだろうか。
もうひとつ、彼の議論は同様に、日本という国家が遂行した先の大戦の具体的評価を抜きにしても、靖国神社という装置を否定しうるという論だてとなっている。先の戦争が必要悪だったかどうか。ここでも本質論は結局ここに行き着かざるを得ない。
高橋氏の議論は結局のところ本質論を回避し、防衛戦争を含めた戦争絶対否定の立場を前提として成り立っている。
ここに、氏の議論の弱点があるように感じられる。
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