わにぞう日記
日常のなかでいろいろと見たり考えたりします。でも、多くは忘却してしまいます。何かの時に思い出せるように。交流の中で意見が深められたり変わったりするのもおもしろいですね。
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民主主義という原則について
近代の価値が相対化される傾向にある。「民主主義」という概念も近代の価値の主要な部分を占めていると思われる。民主主義というのは、結局のところ自己決定の原則だと僕は思う。人間は多様なレベルの意思を持つ動物である。その意思に基づいて自己の行動を決め、意思に沿った結果を期待する。この権利を万人に保証することが、「自由と民主主義」という近代の一つの価値として確立してきたのだと思う。
この価値がなぜ相対化されているか。相対化の主要な主張は、特に現代日本の文脈においては、「個人の自由を尊重しすぎることにより公共の価値が蔑ろにされている」という点にあるように思われる。確かに近代的価値は「個の自立と尊重」を強調してきたし、「近代の代表」とも目される米国は、この「個の自立」を極限まで推し進めている存在とも捉えられる。
しかし僕は「民主主義」という原則を擁護していくことについていささかも迷いはない。それは、民主主義の原則を本当に実現することは本来、公共の価値を前提としており、単純な「個」の公共に対する優越性を主張する論理ではないはずだからである。
「自由意思の実現」という観点を軸に据えれば、自由と民主主義の概念は、公共の概念や国民国家の機能の尊重ということと親和的なものとなる。このことについて2つの視点から述べたい。

まず始めに確認しておきたいことは、自由と民主主義がおのおのの個の持つ意思の実現のための重要な前提である。ということである。
人間の歴史は自己決定に基づく行動を行うことができる主体を増加させる方向に進んできた。これは、自然に対する働きかけの自由度を増やし、より小さいコストで多くの人々の生活を支えることができる仕組みを構築してきたこと(平たく言えば「科学技術」の発展)に基礎付けられたものである。より多数の個人の意思を実現させることが可能となってきたのである。
そのためには自由と民主主義は重要である。結局のところ他の主体の意思に自らの意思の実現を委ねることは、ある局面に置いてまた短期的には可能かもしれないが、長期的には自らの意思の実現を困難とすることは歴史の証明するところである。
個人の「自由」を尊重することにより、また、少数の支配者ではなく、すべての人民に決定権を委ねる「民主主義」の仕組みを構築することにより、自らの意思の実現を可能にする社会制度を確立してきたのである。
それに対しては、「個」の過度の尊重により、公共が蔑ろにされる。または、「個」を超えた国家や民族の問題に対して「自由と民主主義」は対立的であって、こういった問題に対処するには近代は役に立たない。といった議論が行われることが多い。しかしこれは的はずれだと思う。

個の自由は公共を破壊するか

自由というものをどう捉えるかとも関係する。人間は、あるいは人間で構成されるあらゆる集団は、当然ながらさまざまな自然的社会的制約の下に置かれている。例えば「明日は全く自分の財産を使うことなく1000億円分の豪遊をするぞ」という意思を持ったとしても、それは実現され得ないことは明白である。近代的自由とは、しばしばこの豪遊の意思の例のように戯画化されて描かれるような、「勝手な夢想の実現」を内容とするものではない。実現可能と考えられる結果たちのなかから、自らの意思であるものを選び取る権利を万人に保証しようとする仕組みこそ、近代的自由の内容である。
そのため、個人の行動については自ずから制限がある。また、普段は意識しないことであるが、万人がそういう権利を持つことができるような仕組みを維持することをその自由意思において「好ましいこと」と判断できるような主体を形成することを、教育というシステムを通じて育成することを、近代的自由は不可欠の前提としている。その意味である予定調和を必然的に必要とし、包みこんだシステムであることがわかる。
実は公共とは、この予定調和のことに他ならない。「自由と民主主義」は、こうした公共の仕組みを個人の意思とその議論を通じた調整を通じて実現していくための仕組みでもある。幸いなことに、いろいろありながらも、こういった仕組みを機能させる能力を人間は持っている。このことは世界諸国の歴史が証明し続けていると僕は思っている。
少なくとも近代的自由は公共と相反するものではない。むしろそれを前提として成り立つものであり、民主主義という仕組みを通じて公共性を実現する可能性を開くものである。
近代的自由は、自由意思に基づいて実現可能な主観的自由の範囲を予め制約することを必然的に内容として持つ。それは、現実の自然的・社会的制約に対する合理的対応を通じて本当に実現可能な意思を実現するために必要なことである。「自由」の本来的意味を実現可能性との関係で整理し直して捉えることが大切であるとおもう。

自由は国家や民族を無視するか

日本はいま、米国の強い影響下にあり、その安全保障や経済的な仕組みを深く米国に依存した状態にある。たとえば憲法9条の改定の動きは、日本に米国の軍隊の一部としての自衛軍を作り、米国の思うがままに行動させるような仕組みを作ることにその主たるねらいがある。
戦後民主主義派の一部の人々は、米国に深く独立性を奪われた状態に対して民族の独立を唱える人々を、民族主義という古い枠組みに捉われた前近代的議論を行うものとして、頭から否定しにかかる傾向があるように思う。しかしこれは、個の意思の実現を目指す近代的自由という観点から見て、非常に奇妙なことだと感じられる。
近代的自由の本質は、個の意思の実現のために、行動の決定権を個に与えることにある。これを国家・民族というレベルで考えると、いわゆる民族自決権という概念が生じる。国家・民族の決定権をおのおのの国家・民族に与えるということである。
いくらある国家において民主主義的な仕組みが整えられていたとしても、その国家が他の国家に従属していたのでは近代的自由は確保されない。民族自決権はすぐれて近代的自由に基礎を置く議論である。
国際社会のレベルで日本国民が近代的自由を保障されて行動することは、国際社会で確立されている独立国家の主権の尊重という近代的自由に根ざした仕組みを通じて最も確実に実現する。
日本が米国の属国化することに対する懸念は、日本の歴史的存在が軽視されていくという懸念とともに、国際社会のレベルにおける日本人の近代的自由の破壊に対する懸念によっても構成されてよいはずだ。戦後民主主義の弱点の一つは、戦前の排外的民族主義への機械的反発から、民族と国家を無意識的に忌避する傾向と結びついていると思う。この傾向によって民族主義の持つ近代的・民主主義的側面を置き忘れがちであった。この間隙を縫って、幼稚な民族主義的な主張が一方で跋扈している。それに機械的反発をするだけでは不毛な対立に堕する。民族主義の面でも近代的文脈での問題提起をしっかり行っていくことが大切になっている。

とはいえ困難な近代の実現と歴史の主体

もちろん自由と民主主義の現実社会における展開は、もちろん必ずしも理想的なものとは言い難い。例えば西部邁氏や佐伯啓思氏ら、本当の保守主義者たちの議論には大いに根拠があると思う。これに対して歴史を作る主体として僕たちはどう対峙していったらいいのか。民主主義・近代の可能性をなぜ重視するのか。この点では、最近の大塚英志の論考が大変参考になる。これについても今後是非紹介していきたい。
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