わにぞう日記
日常のなかでいろいろと見たり考えたりします。でも、多くは忘却してしまいます。何かの時に思い出せるように。交流の中で意見が深められたり変わったりするのもおもしろいですね。
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「わしズム」2006夏号 座談会
本当はかなり前に読んだのだけれど、多忙で書き込む暇がないままに今日になった。ちょうど秋号に目を通したところで、夏号を思い出しながら雑感を書き留めておきたい。相変わらず日本の言論空間の中でのホットスポットを的確に衝く論考が多く、良い刺激になる。
とりあえず、座談会「超・戦争論」を題材にする。

座談会「超・戦争論」

香山リカ氏・大塚英志氏の立ち位置

香山リカ氏、大塚英志氏といった、本来仇敵の「左翼」陣営にあると小林よしのりとしては主観的には考えている論客を招き、刺激的な議論を展開している。特に「ナショナリズムの台頭」と呼ばれている現象を俎上にした議論の中で、それぞれの論者が冷静にそれを見ながら個を貫徹している人々であることがよくわかる。
両者とも「左」ということだが、立ち位置は相当異なる。香山氏の場合、

ニューアカデミズ全盛の80年代に大学生だったので、「脱構築」とか「大きな物語を解体せよ」とか「すべてのものは等価値である」とか「浮遊する記号」とか、そういう思想の洗礼はモロに受けました。浅田彰さんの「逃走論」とかね。だから愛国心とか天皇制といった「大きな物語」には違和感があるんです。・・・いつのまにか世の中の軸のほうが地滑りを起こして、元の場所に立っているだけの私が「左」といわれるようになっていた。


と自己診断をしており、主観的にはあくまでも「相対主義」の枠組みにとどまっていることを明らかにしている。小林よしのりの立ち位置とはかなり異なる。一方大塚氏は

僕の場合、浅田さんの「逃走論」は責任や成熟の回避ではないかと批判したせいで、相対的に「右」に見られたのだけれど。でも、僕のポストモダン批判はすぐに愛国心に結びつくものではなく、むしろ自分の根拠となってきた戦後社会の教育や憲法のあり方を再検証していく中で、責任や成熟という考え方を作り直していこうというもの。それが僕の戦後民主主義擁護論であり、肯定論であることは変わっていない。


という。ここには小林よしのりのいう「公」の重視と相呼応するものが見られる。戦後民主主義の欠落させてきたものを正当にも取り戻そうとしているという意味で、全く同質のものを共有している二人であることがわかる。

「ナショナリズムの台頭」なるもの

昔は国家というものを頭から否定し、あるいはその存在を思考から滅却していた人々が、ふと気がつくとイラクで人質に取られた若者たちを、国家の立場からイヤらしくいびり抜くまでに変貌を遂げた。これが「ナショナリズムの台頭」と呼ばれる現象である。大塚氏は小林よしのりに、

その状況を生み出す上で「戦争論」が一定の作用をしてしまった・・・ことに対して、ある種の責任とか、忸怩たる思いみたいなものはないのですか。


と問うている。確かに、特に小林よしのりに特別な関心を寄せているわけではなかった左翼の側にいる人物から見ると、こういう質問を発したくなるのは理解できるところだ。しかし、どちらかというと左翼の側にいながらも、ずっと小林よしのりに注目してきたわにぞうからすると、この質問は少々酷だと思う。小林よしのりは、

イラクで人質に取られた邦人3人へのバッシングが始まったとき、「自作自演説」まで出てきたのは絶対におかしいと思って、テレビで人質を養護したりした。あの自己責任論を唱えた人たちの中には、わしの影響を受けた人もおるだろうと思います。だけど、わしは自分の読者が全員そうだとは思わない。まるっきり右に行って、「中国、韓国、何するものぞ!」と拳を振り上げている人間だけが読んでいるわけじゃない。


と答えているが、わにぞうも「拳を振り上げている」たぐいの人間ではない読者の一人だからよくわかる。今の無責任な「ナショナリズム」と小林よしのりの議論とは異質なものだ(そのことは「秋号」のゴー宣extraを読むともっとよくわかる)。人質事件の時に見た小林よしのりの論陣を張る姿が涙が出るほどうれしかったわにぞうとしては、当事者意識すら持ってそう思う。
とはいえ、確かに小林よしのりの「戦争論」は、彼の意図と関係なく、「ナショナリズムの台頭」なるものに明確に作用を及ぼしたことは確かだ。これはなぜか。世界の中での日本の位置が変化してきたことで、日本人は客観的に見て、自らの進路を選び取らなければならない状況に置かれている。日本人の自意識をひとつの主題とする「戦争論」が、「国家の品格」などとともに多くの読者を得たのは必然だろう。
そして、危険思想として民族という存在にふたをしてきた戦後の空気の間隙を縫って、民族自決の論理を手に入れた一部の世論が、それを幼稚に振り回しているのが現在の「ナショナリズム」という存在だろう。民族自決の概念は元来すぐれて民主主義的な概念であるにもかかわらず、日本の戦後民主主義は米国に対する従属性と戦前日本の民族排外主義の歴史の狭間で、民族問題との距離感を正しくつかむことができなかった。このことも手伝って、現代日本の「ナショナリズム」はその積極的側面を欠落させ、豊富な国際的な歴史的教訓からも切り離され、むき出しで幼稚な主意的日本ひいきにすぎないものに陥っている。
小林よしのりの立場は、すぐれて正統派の民族自決主義に基礎を持っている。戦後民主主義を信奉する者たちの一部がそれに機械的に違和感を表明するのは、それを自らが置き忘れてきた自覚がないからにすぎない。(姜尚中氏などは、やっぱり民族問題との距離感を見直すべきだというきちんとした問題意識に到達しているようだ(「愛国の作法」より))
また小林よしのりがこうまで戦後民主主義の立場からの議論を嫌う理由も、わにぞうにはよくわかる気がする。自由と民主主義の価値を(あるいは平和と生命の価値を)、自明の所与の真理として奉じる傾向のあった戦後民主主義は、いったんその価値の相対化が始まると、原理原則から問題を論じることができなくなる。小林よしのりは既存の権威を認めて議論をすることが嫌いだから、戦後民主主義の限界性にきわめて敏感である。自由も民主主義も平和も、歴史的文脈に則し、人々が主体的にそれを倫理として選び取ってきたからこそ、現代においてきわめて優勢な「公理」として受け入れられるに至ったにすぎない。決して「正しい」と論理的に証明されたから、これらが多数によって支持される倫理として受け入れられたのではない。小林よしのりはこれを知っているから有効な問題提起ができる。ここに無自覚な戦後民主主義者は、これに対して不同意を非論理的に表明するか、理解できずに沈黙するかしか道がない。国際人権規約や日本国憲法の諸条項という形になっているからと、しばしばこれに寄りかかるような議論がなされるのもよくあるパターンだ。

大塚英志氏の強靱な平和主義

この座談会の中でもっとも光っていたのは、大塚英志氏の立ち位置が実に強靱であることだ。このことは特に日本国憲法の平和主義を擁護する氏の論理に現れている。彼の立論ならば、小林よしのりの問題意識に十分かなう生産的な議論が可能だろうと思われる。
憲法の平和主義を巡る大塚氏の次の現状分析は、実に明快で、強く同意できるものである。それに対する小林よしのりの受け答えも肯定的である。

大塚 戦後憲法の前文と9条は「武器」でなく「言葉」で他者と関わる、という決意たり得た。単に及び腰で首をすくめて生きていくのではなく、ましてやアメリカの庇護下に入るのでもなく、他国と言葉によって交渉する。朝日新聞のキャッチコピーみたいで嫌だけど、「言葉の力を信じましょう」という選択肢はあったわけですよ。ところが日本はアメリカの軍事力の傘下に入ることによって、他者に向けて語るべき自分自身の言葉を構築できなかった。国家運営の根本となる憲法の言葉でさえ、「建前は置いといて」と言って裏切るようなことをやってきたんです。だから、「戦後民主主義が言葉をダメにした」という言い方だけでは十分ではない。戦後憲法にも言葉を豊かにする可能性があったのに、日本人はそれを選択しなかったんですよ。
小林 なるほど。つまり大塚さんは、あの憲法に書かれた理念をリスクを負って本気で引き受けようというわけね。いいよ、わしはそれを選択してみても。非武装で、徹底的に言葉だけでやってみよう。


このリスクについて、鈴木邦男氏はこう述べる。

鈴木 しかし言葉だけでやっていくのは、かなりシンドイですよ。軍隊がなくなったら日本はやっていけないんじゃないかという不安は、なかなか取り除けない。僕自身は、その不安を取り除けるほどの性善説には立てないな。国民一人一人にその覚悟を強制できますか?


重要な問いである。憲法の平和主義についてはしばしば、軍隊を放棄することによってより平和になる、という説明がされる。しかしこれは本当だろうか。軍隊の否定とは本来、世界に丸腰で対峙するという行為であり、大変な(ある意味で非合理的ですらある)勇気が必要な行為なのではないのか。わにぞうはそう思う。だからこそ、この条項は本来、国民の覚悟とともになければならない。大塚氏は鈴木氏に対してこう答える。

大塚 でもこの国が現在の憲法を選択している以上、論理的な帰結としてはそのリスクを背負うべきだと思いますよ。リスクを背負う価値はある。
小林 なるほど。リスクを伴った非武装中立論というものを、わしはここで初めて聞きましたよ。その言い方ならば、かなりわしは評価するね。一方で核兵器まで持たなくても、そこそこの軍隊を持って何としても独立し、絶対に他国を侵略しない。そういう選択も、あり得ると思う。


大塚氏の発言の中でさりげなく使われている「選択」という言葉は大切である。平和憲法は絶対的真理発見の表明ではない。戦後日本人の「選択」なのである。
その後、その場合に日本は核武装をすべきか、という議論になった。大塚氏のリスクを伴う非武装中立論の表明を受けた小林氏の結論は次の通り。

小林 「地上で戦う覚悟はないから核武装しよう」というんじゃ、話にならない。そんなことをするぐらいなら、リスクを背負って言葉だけで戦う非武装中立論に与した方がマシだと思うぐらいだな。


小林よしのりをも納得させうるような平和主義論を構築することは可能だという確信を強く持てる議論であった。
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