わにぞう日記
日常のなかでいろいろと見たり考えたりします。でも、多くは忘却してしまいます。何かの時に思い出せるように。交流の中で意見が深められたり変わったりするのもおもしろいですね。
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コンストラクティビストの核抑止論理解
昨日、反核運動はその主張が核兵器使用を防いできたことに自信を持って良いのではないか、という内容のエントリーを書いた。関連するページをいろいろ調べていると、こういう主張は既に学問の場においてきちんとなされており、その主張を代表する人々は「コンストラクティビスト」(あるいは構成主義)と呼ばれていることを知った。

中沢力氏のホームページ International Studies Watch による、Hopf (1998) の論評から引用すれば、

コンストラクティビストは、行為主体と構造が相互規定的な関係にあると考える。また、構造は物質的(material)であるばかりでなく、相互主観的(intersubjective)な認識にもとづいているとみる。行為主体、具体的には国家や国際機関、企業、非営利民間組織などは、既存の文脈(構造)の制約の下で行動するわけだが、構造は物質的・客観的に存在するのではなく、構造もまた行為主体の行動を通じて初めて再生産され、また、構造は行為主体の行動の変化によって変容すると考える。この含意として、行為主体の行動を理解するために、文化、規範、制度、規則などがもつ社会的・相互主観的な意味を知る必要性が強調される。たとえば、世界政府が存在しないアナーキーな国際システムは不可避的に自助(self-help)のシステムになると考えるネオリアリストとは違って、コンストラクティビストは、行為主体がそのような国際システムに対してどのような相互主観的理解をしているかによって、物質的条件が変わらなくても、アナーキーな国際システムは自助のシステムにも相互扶助のシステムにもなりうると論じるのである。

この立場は、国際関係論におけるリアリズムの立場「に対する挑戦として受け止められる」という。
*: Hopf, T. (1998): The promise of constructivism in international relations theory. International Security, 23, 171-200.
昨日のエントリーに即して言えば、「はじめて核兵器の被害を受けた国民として、核兵器は持ちたくない」、「核兵器を使用することは倫理的に許されない」とか、「核脅迫に基づく国際関係は不当である」といった、「文化、規範」などが持つ「相互主観的な意味を知る必要性」が強調される。リアリズムの立場が「核戦力の均衡」という物質的側面に即して問題を理解する一方、「文化、規範」といったものを不確かなものとして考察から排除することによって、定量的、客観的な問題理解を可能にしようとするのに対して、コンストラクティビズムの立場は「文化、規範」といったものが事実国際社会を動かす客観的な実在であることを主張するのである。
このことが核抑止論という問題領域ではどのような具体的意味を持つかを端的に示すページを見つけた。NHKのスタッフとして数々の評価の高い社会派ルポルタージュ番組を手がけ、著書もあり、現在退社してブリティッシュコロンビア大学の大学院で学んでいる東大作氏による「カナダからの便り」の中の一文である。この大学で彼は、リチャード・プライス准教授と出会う。カナダからの便り?(2005年5月13日)から引用する。

このコースでも最も衝撃を受けたのは、プライス助教授が打ち出している「化学兵器や核兵器が使用されてこなかった理由は、古典的なリアリストの議論、つまり『抑止力』だけでは説明できない。このような兵器が、非人道的な兵器だと、『ステイグマ(汚名を着せられること)』され、不使用が『規範(ノーム)』になったからである」というコンストラクテイビストならではの、主張であった。
国際政治学の主流である、リアリスト(現実学派)の主張は、「核兵器が、広島・長崎以来、使われていないのは、敵国が核抑止力を持ったから」である。そのため、生粋のネオリアリストは、核の不拡散よりも、むしろ健全な核拡散を主張する。核の管理さえしっかりすれば、核兵器を全ての国が持つ方が、抑止力によってかえって世界は平和になるという考えである。
<略>
コンストラクテイビストは反論する。それでは、なぜアメリカは、朝鮮戦争で、核兵器を使わなかったのか。中国も北朝鮮も当時核兵器を持っていなかった。ベトナム戦争で核兵器を使っても、北ベトナムから核で報復される可能性はゼロだった。アフガニスタン戦争では、逆にソ連が核兵器を使うことは、抑止力がないという意味では十分可能だった。それでも戦後60年、核兵器が使われなかったことは、核が次第に「悪魔の兵器」として、使用することが人道的に難しくなり、そうした兵器の使用が、国家の評価、評判、道徳的な価値、文明国家としての認知など、長い意味で国家のイメージを著しく損なうため、国家が使うことをためらう、もしくは使うことを諦めざるをえない状況になっているからだ。というのが、彼らの主張である。
<略>
これは、広島や長崎で地道に反核運動を行ってきた人達、(私の祖父もまたその一人だが)にとって、大きく勇気づけられる理論だと私は思った。そして、核の悲劇を、これでもか、これでもかと、伝え続けてきた、NHKをはじめとするメデイアの仕事が、如何に重要かを教えてくれる理論でもあった。

自分としてもたいへん力づけられる興味深い話である。
世論とか規範、倫理といった要素を捨象するリアリズムは、一見とても科学的かつ客観性である。反核運動などというものはそれに対して科学から遠く隔たった主観主義にすぎないという「常識」が形作られているように思う。しかし、主観の中に確かに実在している倫理、規範の役割を考慮に入れなければ実際の社会の動きは説明できないこと。コンストラクティビズムの立場は、ここに科学の光を当てることをその目的としているらしいのだ。リアリズムの立場は、実は実在の一部を捨象しているために一面的にならざるを得ず、決してコンストラクティビズムと比して科学的であると判断できる立場ではないと言えよう。

追記(2009/08/20):
東大作氏とは、このあと著書「平和構築」で「再会」することになった。
コンストラクティビストの哲学的立場を国際社会における平和構築への努力の過程に対する科学的省察に適用した会心の著書に仕上がっている。「主観のなかに確かに実在している倫理、規範の役割」にまさに「科学の光を当て」たものである。本当に幸福な再会だ。
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テーマ:戦争・原爆 - ジャンル:政治・経済

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