わにぞう日記
日常のなかでいろいろと見たり考えたりします。でも、多くは忘却してしまいます。何かの時に思い出せるように。交流の中で意見が深められたり変わったりするのもおもしろいですね。
06 | 2015/07 | 08
S M T W T F S
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -

スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

安保法制の強行採決を新たな出発点とする
安倍内閣与党は委員会で安保法制を強行採決した。彼らによるこの行為は、国を壊す重大な決意を表明したものである。

法治国家としての根幹である立憲主義を破壊し、国家の防衛にあたるべき自衛隊を、米国への「公約」のままに中東を含む紛争地域における軍事活動に投入する。武力に訴えない国として、また米国の暴虐にも負けずに復興を遂げた国としてつみあげてきた貴重な国際的信頼を決定的に裏切り、自衛隊を米国の先兵としてテロとの戦争の最前線に追いやって日本の安全保障環境を著しく悪化させる。この行為はまさに国壊しそのものである。

なぜ国を壊そうとするのか。中国と北朝鮮が怖いからである。しかし、国を壊してでも安保法制に固執するに足る脅威がどこにあるというのか。国壊しをして尖閣を守る? 中国が尖閣の現状変更をおこなえば、先制攻撃の責めは中国に負わせることができる。国壊しをしてノドンを打ち落とす? ミサイル防衛の技術的困難性を少しはわかっているのだろうか? そしていったん日本国土にミサイルを撃ち込もうものなら、北朝鮮にはもはや一切の義はなくなる。何を恐れることがあろう。

安保法制派は、日本国民の平和と安全、自由な暮らし、国民の幸福追求の権利を守るためだとしきりに言いつのる。だがそのために日本の国を壊すことまで国民は望んでなどいない。前途有為な若者たちを殺し殺される米国のための「対テロ戦争」の前線に差し出すことによって「安寧な生活」にうつつを抜かすような国民に、僕らは絶対になりたくない。

今日安倍内閣与党は、国壊しの重大な決意に踏み込んだ。国を守る重大な決意を持って、我々日本国民はその存在の意味をかけて、戦いぬくだろう。日本の本当の安全保障のために、安保法制は粉砕する必要があるのだ。

国会前では若者たちによる空前の抗議の声が上がっていると報道されている。そしてさらに数を増していると。
僕たちはこの行動の味方である。
スポンサーサイト
よしりんの反安保法制論の魅力
小林よしのり氏はひきつづき安保法制反対の論陣を張っている。
最新の論考は、「弁護士ドットコム」ニュースの「「自民党議員は『保守』ではなく『ネトウヨ』」安保法案・小林よしのり氏に聞く」である。
率直に言ってやっぱり面白い。どこが面白いかというと、「よく言われている話」として定型に回収されてしまう言論(すなわち、人々の心の垣根をすり抜けて人々を囲う言論の檻のカギにアクセスする能力を持たない言論)から徹底的に自由であることだ。

戦争法案っていう表現は、的確ではない。これは、アメリカについてくためだけの法案だから「従米法案」で、だからダメだってワシは言ってる。


現在の巷の議論のレベルは、これを「戦争法案」と呼ぶのは怪しからんのかどうか、というところで膠着している。はじめに「平和法案」という呼び名を「戦争法案」と切り返した時点ではそれは新鮮だったかもしれない。だが、その「戦争法案」という特徴づけがほぼ常識となった今の時点で、この特徴づけだけでは安保法制の重要な本質を描ききれない、という面に自覚的批判勢力はそろそろ気づくべきなのではないか。

そもそも、自衛隊は軍隊じゃないんですよ、やっぱり。自衛隊は軍隊じゃないっていうことを、みんなどうやら忘れて議論しているみたいで。軍隊じゃないもので集団的自衛権をやろうとすると、これはどうしても矛盾が出てくるんですよ。


これも実に的確で射程の広い問題提起だ。安保法制批判派は、安保法制によって自衛隊がいよいよ本格的に軍隊として変質していくように見えるとして批判しがちである。しかし、実は本質的な矛盾は、自衛隊を軍隊と扱わないままに安保法制に動員しようとするところにこそあらわれているのだ。例えば伊勢崎氏が断じているように、自衛隊を正しく軍隊として扱おうとしない日本政府の姿勢にこそ最も深刻な問題があるのである。
安保法制反対派は、集団的自衛権にまで踏み込もうとしながら、結局のところ自衛隊の米国への切り売りのみを目的としている日本政府の限界からくるこの問題に、もっと厳しく切り込むべきだ。

こうして考えてみると、現在安保法制をめぐって生起している問題の本質は、「戦争法案」としてとらえるよりも、「従米法案」としてとらえたほうがよりはっきり見えてくるように思う。

法案を通したい人たちは、もはや一国では守れない世界になりましたという。でも、これは全くのウソ。軍事同盟を結んでない国って、世界にいくらでもあるわけ。それで、国は守れないっていうのはウソなわけ。ペテンのプロパガンダだよ。


日本をどうやって守るのか。安全保障政策として何が適当か。実は安保法制反対派の多くはこの論点に鈍感だ。だから実は、「一国では守れない世界になりました」という安保法制の主張にバッサリ答えることが不得意だ。翻って小林よしのり氏は、安全保障の世界標準がすでに軍事同盟によるものでないことを理解しているから、こうまで見事に切れるのだ。
尖閣諸島の防衛に関するリアリズムの主張も切れまくっている。軍事戦略に踏み込んでのリアリズムに基づく損得勘定に関する議論を踏まえた主張となっているからだろう。

結局いま、立憲主義を守るのか、国際関係の逼迫感なのか、この2つが天秤にかかっている。ワシが問題視しているのは、「立憲主義の危機」なんですよ。憲法9条の危機ではない。左翼は憲法9条の話をするけど、ワシは違う。「立憲主義が壊れることがとってもまずい」って言っているんです。


まったくそうだと思う。安保法制派の論理は、日本をめぐる情勢は、立憲主義など守っていられないほど逼迫している。という。しかし、このように浮き足立って立憲主義を破壊、すなわち国を自ら壊すことを必要とするほどの恐怖の異常事態なのか? それに相応する危機があるというのか? これをいったん問いとして成立させてみることで、安保法制派の論理が相当「イッてしまっている」ものであることが改めてわかる。
あえて天秤にかけてみることを、本当は安保法制反対派が提起してもよいはず。だが、これらの人々は軍事的考量をはじめから拒否する傾向があるため、この天秤を作動させることがなく、重要な議論に踏み込めないことになる。
これはもう一方では、安保法案の対立概念を9条だけに矮小化するべきではないことを意味している。9条を原理的に至上のものとだけとらえていると、より大きな問題点に気づくことができなくなるのである。

たとえば、安倍首相が、米議会で演説したとき、「日本にとって、アメリカとの出会いとは、すなわち民主主義との遭遇でした」と言っちゃったわけ。ホントだったら、保守だったら、激怒しないといけない発言ですよ。

違いますよ。日本とアメリカの出会いは、砲艦外交と不平等条約だから。幕末にだって、横井小楠のように議論で政治をすべきだと言っている人がいた。



安倍首相と安保法制派の米国観のゆがみはもっと深刻に議論されてしかるべきものだ。そして同時にこのような安倍演説を絶賛する保守論壇の水準が知れる。ネトウヨ水準なのである。

思うに、こういう芸当ができる理由は、科学的な世界観と徹底したリアリズム、具体的事実と歴史に謙虚に学ぶ姿勢にあるのではないだろうか。

そしてもう一つ。反対の意見を持っている人々の意見にも虚心坦懐に触れようとすること。何でも受け入れるのではもちろんない。つまるところ、その人にもそれなりの「論理があること」、同時に限界があることを認識しようとするのだ。

右も左もそうだよ。左も左で、自分がこのポジションだと決めたら、自分のポジションに利する言論しか耳に入ってこないんだよ 。相手はなぜそう主張しているのかを考えることができなくなる。ものを考える事よりも、自分のポジションでものを言う事に正義を感じてしまうわけ。



僕がよしりんに感じる魅力は結局ここに通じる。で、超左翼の編集長にもね。
維新・民主共同提出はよかった
安全保障法制の対案をめぐる維新・民主の足並みが乱れたが、今朝急転直下、結局共同提案する合意がなされた。

現在の問題の焦点のひとつは、昨日申し上げたように、維新現執行部の本気の提案をひっくり返そうとする橋下市長の策謀がどの程度成功するかにある。この点で、野党共闘の姿勢を明確に示した今朝の結果は重要である。

もちろん、与党の「壊国への重大な決意」はどうやら揺るがないらしいこと。さらに、橋下の策動も急を告げるであろうことから予断を許さない。しかし、今朝の動きはどのような展開になっても、有意義であった。引き続き安保法制粉砕の展望はある。
維新の動きにも注目している
維新が安全法案に対する対案を提出した。
ああ、また中間政党が裏切った・・と断ずる向きもあるだろうけれど、それは違うと思っている。

維新の松野代表は、24日までの採決をアシストする気はないと明言している。アリバイ作りに利用されるつもりはないと。
柿沢幹事長は、

「60日ルールを適用できるような状況の中で、衆院で採決し参院に送るということになれば、問答無用で政府案を通すということになる。7月末まで審議をやって、維新案と政府案を国民に比べてもらいたい。与党の採決のアリバイ作りに協力するつもりはない」。


と述べている(田中龍作ジャーナル)。
柿沢氏は一貫して安保法案の本質的な危険を自覚しているとわにぞうは見る。
もし24日までの採決強行を与党が決断するとすれば、維新は採決を欠席することになるだろう。
ただ、維新の一部が採決に協力する姿勢を鮮明にする可能性がある。現維新執行部がこの動きをいかに最小限にとどめて乗り切るか。わにぞう自身は維新の「対案」を専守防衛として出来がいいとも思わない。しかし、現時点において柿沢氏の意図に注目するし、それが成就することを祈ることに吝かではない。
こういう流れを実現させた要因の一つは大阪都構想を打ち負かしたことだ。
橋下大阪市長の巻き返しの成否。これが現下の情勢をめぐる一つの焦点だ。

維新主流派が採決欠席・・・にもかかわらず採決強行をするとすれば、・・・まさに「壊国への異常な決意」ということになるだろう。
強制労働と強制されて働くこと
強制労働と強制されて働くこととは意味が違う。と菅官房長官は言う。確かに前者は名詞形であり、後者は動詞形だ。その意味では違う言葉だ。
強制労働は英語でforced labor, 強制されて働くことは、forced to work。
ところが困ったことに「英辞郎」によれば、、「~で強制労働させられる」という言葉を英語に訳すと、be forced to work in~となるという。「~に強制労働させる」は、force ~ to work。
こうなると、強制労働させられたりさせたりすることは実は強制労働と関係もない、という超絶的なお話になる。

ただ、やはりこれも可能だ。純粋論理的には可能。
狭義のいわゆる「強制労働」というものを措定し、強制労働させられたという一般的に表現される事態というものは、菅官房長官の措定するところのいわゆる狭義の「強制労働」とは異なる。ということなのだ。

菅官房長官はこのように言っているのである。きっと菅氏は本当にそう思っている。衒学的思考のなかで自己了解をしているのだろう。本当に了解しているのだろう。こういうのを頭がいいと言えるのかどうだか。

もう一度言うが、この議論は純粋論理的には可能。だから菅氏は自己了解することができる。だが、こういう論理を使っていては、およそあらゆる言葉を用いた議論は不可能になるだろうとわにぞうは思う。あなたの言うAは、私の思うところのAとは異なる。と言い募ればよいのだから。純粋論理の世界で菅官房長官に勝とうと思ってもそれ自体は仕方がない。言葉というものはそこまで純粋論理的にはできていないのだから。

だから、結局のところ引導を渡すしかない。こういう衒学的で混迷した思考を弄する人物が政治の中枢にいていただいては困る。という民主主義社会の主権者としての都合で結論を下せばよいのだ。


プロフィール

わにぞう

  • Author:わにぞう
  • 理系研究者です
    自転車で遠くに行くのが好きです
    ↑は、日本最南端の碑

最近の記事

TBポリシー

このブログは、言及をした場合にトラックバックを送るという原則を堅持します。ただし、このブログに対する非言及トラックバックは許容します。理由はこちら

ブログ内検索

バナーエリア




「キャプテン」イガラシ全国大会版アニメ化を
応援しています
「キャプテン」近藤版も期待しています

最近のコメント

最近のトラックバック

カテゴリー

リンク

このブログをリンクに追加する

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

RSSフィード

月別アーカイブ

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。