わにぞう日記
日常のなかでいろいろと見たり考えたりします。でも、多くは忘却してしまいます。何かの時に思い出せるように。交流の中で意見が深められたり変わったりするのもおもしろいですね。
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宇都宮さんは狭い「社共共闘」候補なんかではない
細川さんが出たことにより、政党レベルでは社民党と共産党の推薦にとどまっているけれど、宇都宮さんは決して「社共共闘」のような枠組みだけの候補ではない。
社会に蔓延する貧困の解決という自らの目的を達するためには、自民党や公明党の議員とも粘り強く対話を続け、賛同者を増やす意志と実績のある人なのである。
日本外国特派員協会の記者会見で以下のように述べている

例えば、個別の多重債務者の救済でも、全国に何百万人といる多重債務者を救済するためには、法を変える必要があった。この30年間で、さまざまな法律を作ってきたが、法律を作るためには、国会で過半数の賛成が必要だから、法律を作るためのロビー活動は野党だけでは駄目で、与党も説得しなければいけなかった。

この活動そのものが、ある意味では『政治的活動』ではないかと思っている。知事になれば、条例を作るにも都議会の協力を得なければならない。これまでの経験から、事実の道理に基づき、都民のためになるものであれば、自民党や公明党の都議会議員も賛成していただける。そういう確信を持っている」。


より広い保守層を含めた共同を広げ、まともな正義の感覚を持ったより広い保守層を、舛添氏の枠組みから引っぺがして来ようではないか。こういう仕事はきっと宇都宮さんにしかできない。「脱原発」や「新しい理念」を掲げて新しい層を掘り起こそうとする細川氏とは違う方向性で、有権者の良識を顕在化させる運動が進むことを期待したい。
ターゲットは舛添氏だ。挟撃することが大切だろう。
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靖国神社と第2次世界大戦の性格
靖国神社は単なる戦死者を対象とした施設ではない。例えば日本の関係した戦争での海外の被害者は祀られていない。この点では沖縄の平和の碑の方が平和の観点からはよいと思う。だが、海外はまぁさて置く、ということにしよう。それでも日本の戦争被害者も祀られていない。基本的には軍人を祀っている。一方でA級戦犯は合祀されている。逆に、西郷隆盛は時の政府(と、自動的に天皇)に対する逆臣なので祀られていない。基本的には軍人のみを対象とした施設である。
また同時に、軍人を単に追悼する施設ではない。彼らを顕彰する施設である。日本(国家)のために、自ら軍事的な意味で命を投げ出して戦ったものを顕彰する施設である。
通常、平和を主張する人々はこの時点で靖国参拝に批判的な見地は確立することになる。
だが、ここはもう一歩考えてみることをお勧めしたい。

日本(国家ではなく、国民あるいは民族)のために命を投げ出して戦ったものを国民の立場から自然に、積極的な意味をもとらえて弔うことは重要ではないだろうか。問題なのは、靖国神社が軍人の顕彰を、あくまでも当時の国家の立場から、しかもその当時の国家の立場や国策を全面的に肯定する立場から行っていることだ。なぜ、過去の戦争等で日本のために戦ってくれた人々を積極的に弔おうとすると、同時に当時の国家の立場に立ち、その国策を全面的に肯定する立場に立たなければならないのか。僕は当時の軍人たちについても、その意思を尊いと思い、自然に弔おうとする意思がある。だが、当時彼らを死に追いやった国策の誤りは犯罪的だと考えている。その戦争で侵略の対象となった国々もあることを思えばなおさらである。

問題は、軍人を祀り、その意思をたたえようとしていることではない。そうではなく、当時の国策を全面的に肯定する立場(日本国家無謬の立場)を、弔おうとするものに押し付けていることである。

靖国神社の日本国家無謬の立場は、当時の軍人たちに対する犯罪的な国家指導者の無謀や無策をも覆い隠す。靖国神社は、顕彰している当の軍人たちの戦いの足を引っ張り、無為に引き回した国家の犯罪を糊塗しようとしている。また、国のために戦争に反対した人々を無視している。このような立場を無邪気に肯定できない人がいるのは当然だろう。
当時の国策を全面的に肯定すると、第2次世界大戦の性格、したがって戦後国際社会のとらえ方が国際社会と大きく異なるものとなる。第2次世界大戦を国際社会がどのように性格付けしているか。一面では帝国主義国家間の権益の奪い合いという側面があった。だが一方では、ファシズムに抵抗する世界の連合の力で、自由と民主主義、人権の尊重を否定する勢力を追い詰めて打ち負かした性格もある。だから、戦後処理は単純な植民地主義的領土の分割は起こらなかった。多くの欺瞞はありつつも、領土不拡大の原則を確立した。というものだ。靖国神社の立場は、このような国際社会の見方を日本国家無謬の立場から否定する。これはまず通常の国際社会の原理を受け入れている多くの国家(米国を含む)にとって認めがたいものである。民主主義、人権の尊重を僕は尊いと思うから、第2次世界大戦の日本のこの点での立場は非常に残念なものだったと感じる。民主主義や人権を当時の日本こそが代表していたと感じる人もいるとすれば、それは尊重しつつ反論するつもりだ。

すなわち、僕が問題だと感じるのは、靖国神社の特異な立場である、日本国家無謬論(しかもその対象は相当戦前戦中国家に限定されている)だ。軍人を顕彰しているからではないのだ。その意味では、首相の参拝が顕彰であったとしても、現在の靖国神社の立場を考えると、僕には肯定できない。
おすすめ:デモクラTVのインタビュー
候補者の人となりを知ることは首長選挙では特に重要。
今のところデモクラTVのインタビューが一番いいように思う。
まだ宇都宮・細川のみだが、他の主要候補者も早くインタビューに答えてほしい。
宇都宮さんはアジアの高利貸とグローバリズムを追いこんでいる
今回デモクラTVのインタビュー番組を見た。
宇都宮さんはサラ金の高利貸規制に奔走してきた弁護士であることは有名だ。
日本で追い詰められたサラ金業者は、通貨危機を契機にIMF流の新自由主義政策を押し付けられた東アジア諸国や東南アジア諸国に進出して新たな問題を起こしているという。今宇都宮さんのグループは東アジアに立法の手法を広める取り組みを数年間強めているのだそうだ。更に、このような立法運動は、TPPに象徴される規制緩和の米国のグローバリズムに挑戦する性格のものであることがわかった。

細川さんの登場についても歓迎したいと言い切っている。7-8割の原発反対世論を投票行動に結合させる視点。また、その世論の濃淡をとても具体的に把握していることが分かった。
宇都宮さんで開ける可能性
宇都宮さんの政策ページを読んだ。
やっぱりこの人を知事にすればどれだけの可能性が開けるだろうかと思った。
特に、「IV 教育現場への押し付けをなくし、すべての子どもたちが生き生きと学べる学校をつくります。」には全面的に賛成。ここに未来への希望を感じる。今の学校現場の疲弊や国家の立場の押しつけに対する防波堤になってほしい。教員と子ども、都民を信じる姿勢がいい。

やっぱり脱原発だけの視点から宇都宮さんをあきらめることはできない。細川氏とは明らかに異なる政策と価値を持っているのだから、無理やりの一本化を迫るような動きは有害だろう。本音で語りながら、両者の動きを見守っていきたい。
共倒れかワンツーフィニッシュか
都知事選挙に対するスタンスを定めたい。
本音に近い部分はすでに書いている。今後についてはやや政治的にスタンスを定めておく必要がある。

宇都宮候補、細川候補両者の良心を信じることにする。その両者に私の望む政策的な立場により近い方向性を採ること、より明確な都政転換と現政権批判の力を発揮していくように求めていく。その結果としてどちらかが当選することを願う立場を当面採用する。ワンツーフィニッシュにより自公政権の思惑を粉砕しよう。ばかげた妄想ととられるかもしれないが、これは確信犯である。批判されても笑って受け流すだけとする。一本化の提案はしない。共倒れは考えない。宇都宮候補を最善と考えるが、どちらが当選しても、その意義を認めうると考える。

宇都宮候補については、諸課題に優先して脱原発を求める運動があることを考慮し、特別政策の3番目に、脱原発と自然エネルギー・省エネの推進の立場で活躍する副知事とシンクタンクを置くことを提案してはどうか。
細川候補については、新自由主義的な立場からの転換を明確にしてもらいたい。特区構想は規制緩和の流れである。TPPや消費税などの課題について、脱原発と比較して貶めるような発言は慎んでもらいたい。

具体的な引用に基づく投稿もできればと思う。今は時間がないのでこれまで。
周回遅れを露呈したダボス会議
安倍首相の暴走が止まらない。
ダボス会議で一層の法人税減税を誇らしげに宣言し、日中関係を冷厳なパワーポリティクスの観点から日中関係を第一次世界大戦直前の英独緊張感になぞらえてみせた。いずれも、いっそうの新自由主義の増進と、パワーバランスに基づく世界秩序という世界標準に日本を合わせなければ、という切迫感から出た行動だろう。ようやく日本も世界に認められる、というような高揚が安倍首相の顔からは感じられる。

だが、これらはいずれも周回遅れの議論だ。前者は数年遅れ。後者は100年遅れと言ったところか。
法人税減税の国際競争の過熱により各国の財政を窮地に陥っていることが現在問題となっているのが現実。
パワーポリティクスだけでは戦争の防止ができないので、パワーバランスの緩和のための国際的仕組みづくりが20世紀以来の世界政治の最も重要な達成だった。

世界の流れの深刻な読み誤りに気付かなければならない。
にもかかわらず、伸び伸び都知事選挙を戦うために―編集長の提案
明後日告示の東京都知事選挙は、現政権批判派にとって決して簡単に勝てる選挙ではない。安倍内閣の支持は分厚く、簡単に勝てると思う方がおかしい。前回の4対1という票差を自覚しながら、それを少しでも近づけ、追いつき、追い越すことを壮大に展望するフェーズにある。その際に、まじめな保守勢力が表われれば現政権批判派の幅を大きく広げる条件になる可能性があることも見る必要がある。
ただ、現時点では細川氏の本気度は全く分からないのが現実だ。また、この選挙における宇都宮さんとのいい意味での競り合いがなければ、細川氏を本気にさせ、励ますことはできない。ただ無原則に細川氏のビッグネームにすり寄るのは最悪だと思う。

だが、もし細川氏に本当に脱原発のために戦う意志があるなら、また、それを育てていくことができるなら、宇都宮氏と細川氏は気持ちのいい戦いをしてほしい。
どうすればよいのか。

かもがわ出版の編集長(松竹氏)はブログで、当選したら細川さんを原発担当の副知事に招くこととしてはどうか、と宇都宮さんに提案している。

やはり私は、宇都宮さんを都知事にして、細川さんを原発担当の副知事に任命してほしいという立場である。選挙後も、選挙の結果がどうあれ、脱原発を一緒にやっていこうと呼びかける立場である。そういう立場が、国政での多数をつくるきっかけになるし、宇都宮さんの支持を増やすことにもなると考える。


細川さんを突き放すのではなく、細川さんすら変わりうるという立場からの論戦で、力関係を変えていくことが大切だと思う。
「脱原発都知事を実現する会」への最後の批判
「脱原発都知事を実現する会」は、細川氏の政策も出ていない時点で条件付きながら細川支持を表明した。
しかし、真剣な対話と調整の道を絶ったのは細川氏だ。一方的に宇都宮氏を切る態度は納得しがたい。
ついでに言っておくと、この「会」の声明を持って一部マスコミは、「市民運動が(まるごと)細川支持を表明した」かのごとき記事を流し始めていることには注意が必要だ。

脱原発のシングルイシュー。まさに原発を今止めなければ世界が終わると感じるのだ。原発は大問題だが、それ以外の問題をすべてそれに従属させることに矛盾を感じないのはなぜか。生活に根差した国の根本的な諸問題への切実な関心が結局薄いのだ。生活者とは共感の糸が切れているのである。この知事選挙の結果によっては世界が終わるかのように考える。だから、長く粘り強い戦いができない。これは特に知識人に典型的に表れる症状だ。そして記者会見メンバーの言葉の端々に、そもそも宇都宮さんで勝つ気がないこと、粘り強く票を掘り起こそうとする宇都宮さんに飽き、華やかに票をさらってきそうな細川さんに流れたことを問わず語りしている部分が見え隠れしていた。とても残念だ。

細川氏との関係は、政策協定もなく、「推すなら勝手に推してくれていい」という関係になるという。「勝手連」と言えば聞こえはいいが、逆に言えば、細川氏から見れば、「会」に対する責任も一切ないということだ。
ビッグネームにもたれかかるしかない状態になるだろう。
運動を支える人々の戦いとの接続を絶った運動になる。
このような関係で選挙を戦っていては、刹那的な行動を悔いる時が遠からず来ると思う。


しかし、であるからこそ、この選挙の中でも、わにぞうは、実に頼りない彼らとともに戦う立場を取りつづけたい。脱原発を本気で掲げるのであればともに掲げればよい。戦いは断じてこれでは終わらない。結果にかかわらず禍根を残さない戦い方を望む。「会」への批判はこれにとどめる。前を向いていきたい。
宇都宮さんを全力で推すべきだ
細川氏の出馬表明で少し揺れもしたけれど、その後の細川氏の動きではお話にならない。
討論を呼びかけられてもうんともすんとも言わない。政策もわからない。国民に肉声で訴えもしない。政策の記者会見も延期に次ぐ延期。こういう姿勢で、知名度と雰囲気だけで都民の支持をかっさらおうと考えるとは、まさに殿様選挙。都民を相当バカにした話だ。

「脱原発はこれが最後のチャンス」論に対する宇都宮さんの喝を聞いてほしい。
この画像のコメントに「涙を浮かべながら」などと書いてあるけど、全然そんな感じじゃない。
明朗快活かつ堂々とした論陣だ。
宇都宮さんの話しっぷりを見ていよいよファンになった。
この人は本気だ。粘り抜いて戦う意志を持っている。
宇都宮さんをわにぞうは今回最後までぶれずに推す。
細川さんの出馬表明に対する宇都宮さん側の態度表明
非常に理性的な対応だと思った。堂々と論戦してほしい。その中で細川氏の選挙政策を引き寄せてくるくらいでなければならないだろう。細川氏の反原発政策だって、厳しい懐柔の攻勢が予想される中で、どこまで貫けるか。橋下氏も一時は飯田哲也氏をも巻き込んで原発即時停止を自信満々で唱えていたくらいだ。どんどんあいまいになっていったのはつい最近のこと。もう今ではみんな忘れてしまったのではないか。
そして宇都宮氏は、できるだけ広い世論に影響を与え、自公候補から票をかっさらってくることができるような、大胆な政策と訴えに心を砕いてほしい。挟撃により自公候補を泡沫に追い込もう。いずれにせよこれまでの枠にとらわれないことが大切だと思う。

「希望のまち東京をつくる会」のプレスリリースより

2.「脱原発」を掲げる細川護煕氏が立候補を検討していると報じられています。脱原発は私たちの掲げる基本政策の一つであり、細川氏の出馬により脱原発が都知事選の争点となり、関心が高まることに私たちはおおいに注目しています。しかし、細川氏が政治家としての長いキャリアの中で脱原発を唱え始めたのは最近のことであり、東京都の政策としてどのような脱原発政策を表明されるのか、その具体的内容については、いまだ不明です。細川氏の立候補表明のあと、オープンな討論を行なっていきたいと思います。

3.脱原発で一致する宇都宮と細川氏が分立することは、原発推進政党が支援する候補者を結果的に利するのではないか、という声があります。私たちは、そうした声に謙虚に耳を傾けたいと考えます。一方、私たちが掲げている基本政策のうち、福祉や雇用、まちづくり、教育、憲法と平和といった重要なテーマでの細川氏の政策は現時点では明確ではありません。いずれにしても、宇都宮の政策を支持してくださっている方々の選択肢を、自ら失わせるようなことを安易に決めるようなことは、ありえません。


名護の市長選挙
仲井真知事は辺野古の埋め立て許可を表明したが、権限の一部は引き続き名護市が握っていることを県も認めた

沖縄県名護市辺野古の米軍新基地建設に伴う埋め立てや建設後の使用実施にあたって、護岸工事など複数の事業は、名護市の許可や合意なしには進まないことを沖縄県が8日、認めました。日本共産党の嘉陽宗儀(かようそうぎ)県議団長や本紙の質問に、県土木建築部海岸防災課が回答しました。



仲井真知事はこのことを織り込んで、国に「支援」と普天間の明け渡しを約束させたのではないか、というと少々冗談が過ぎるかもしれない。でも、名護市長選挙で移設反対派が踏みとどまれば、辺野古の埋め立てを遅らせることができる。そして残るのは国の沖縄県に対する約束だ。
こういう流れを実現する可能性は十二分にある名護市長選挙だ。
沖縄の空気は全然変わっていない。あきらめてはいられない。


宇都宮さんと細川さん
東京都知事選挙が近づいている。
安倍内閣の暴走政治を食い止めることはとても重要であり、その点で自公候補を敗北に追いやる意義は大きい。
その意味では、宇都宮さん、細川さんに期待するところが大きい。

僕自身は細川さんにはあまりいい思い出がない。特に、金権腐敗は温存したまま政党助成と小選挙区制という偽の政治改革を先導し、その後の改革狂想曲の起点となった政治家である。だから、どの程度その反原発を主とした政治姿勢が本物なのかもう少し見届ける必要があると感じている。
宇都宮さんに退陣を進める向きもあるようだが、宇都宮さんは信頼できる政策を掲げている。この点で、細川氏にはない徹底した民主的世論を広げる力のある候補である。安易に退陣を求めるべきではない。
僕は当面は現政権への批判的な票を掘り起こす二つの論陣を張って正々堂々と勝負してもらいたいと考える。
そしてもし細川氏の立場に見るべきものがあるのなら、世論調査等の状況を見て、また、明確な条件を示すことも含めて、宇都宮さんも細川さんも、候補の統一等の方向性を検討するべきだろう。
「国のために戦う」とはどういうことか
靖国神社の参拝に異を唱える者に対して、「国のために戦ったものを侮辱するのか」と論難する者もいる。僕自身は侵略戦争のなかで自らを納得させ、戦わざるを得ない現実に立ち向かった先輩への尊敬の念を持つ。
しかし、無定見な侵略戦争にのめりこんでいく日本の現実に対して、文字通り命がけで抵抗した人々もいた。こういう人々は靖国に祀られることはない。なぜなら、当時の「国家のために」体制の側に立って戦ったものではないからだ。だが、侵略戦争に命懸けで抵抗した人々の多くは、祖国日本がどうなってしまうのかを深く憂慮したからこそ、国のために戦ったのである。
こういう「国のための戦い方」もある。だが国家権力には反逆しているから靖国に祀られることはない。国家権力は必ずしも国のためにならない行動をとる場合があり、戦前・戦中には特高警察による苛烈な弾圧があった。これに抗して祖国のために戦ったものへの尊敬の念を持つ。時代の下での少数派であるだけに、尊敬の念はより強くすらある。

時の国家権力に寄り添う「戦い方」のみを顕彰する靖国神社は僕はやはり好きではない。またそもそも、顕彰というあり方自体が上から目線でやはりどうしても好きになれない。靖国的なものに抵抗した人々の思いを否定する立場を明確にとる靖国神社の立場はやはり許しがたいと思う。僕はだから靖国神社に参拝することはないだろう。

特攻隊員も、特高に殺された抵抗者も、国のために戦ったという点では同じだ。どちらをも僕は別に顕彰などしない。ただ尊敬したいと思うだけだ。
被疑者が逃亡・・マスコミになぜ冷静な視点がないのか
凶悪事件の容疑者が逃亡したという。
周囲の学校等は事態の重大性にかんがみ、集団下校等の措置を取っている。また、お母さんたちは子どもを家から出さないようにしている。戸締りをいつもよりも厳重にする必要もあるだろう。じゅうぶん気を付ける必要がある。それは間違いないことだ。
だが、マスコミの報道には違和感がある。逃亡した人物はあくまでも被疑者である。いかなる凶悪事件であったとしても被疑者に過ぎない。推定無罪の視点を持ってことにあたるのが民主社会の作法というものだ。
日本のテレビニュースの泰斗であるべき「ニュース9」では、一切この作法を無視したニュースの作りに終始した。

住民が全力で危機から身を守ろうとするのは当然だ。不安に身を震わせる住民の姿を報道することも重要だ。注意を呼びかけることも必要なことだ。だが、日本社会をリードする報道機関がその観点だけで動いていいのか? 

民主社会を守るための知恵をマスコミは忘れ去ってしまった。経済原理と「安全安心」の原則にすべてをゆだねる。民主社会はそれを守ろうとする努力を必要とする。長い戦後の社会に慣れきって平和ボケをした日本社会はすでに、民主主義を捨て去ろうとしているのかもしれない。
久しぶりに「小児病」を読む
久しぶりに本棚に眠っていた「共産主義における『左翼』小児病」(ヴェ・イ・レーニン著、朝野勉訳、大月書店国民文庫、1978年)を読んでみた。現代一流の書き手たちの文章に感じる知的興奮に匹敵するワクワク感をもたらしてくれる文章だ。レーニンが当時のドイツやオランダに生じた「サヨク」的傾向を正面からぶっ叩いた論文である。
当時の「サヨク」はこう叫ぶ(p. 35)。

共産党の支配はあらゆる政党支配の最後の形である。原則としてプロレタリア階級の執権に向かって努力しなければならない。そして、党のすべての政策、その組織、その闘争形態、その戦略と戦術は、これに適応しなければならない。このため、ほかの政党とのあらゆる妥協、議会主義という歴史的にまた政治的に寿命の尽きた闘争形態へのあらゆる復帰、あらゆる迂回政策と協調政策はすべて、断固として拒否されるべきである。


革命的闘争において当然共産党の指導下に入ってくるもっとも広いプロレタリア的な団体と層とを結集するため、最も広い土台の上に立った、また最も広い範囲の、新しい組織形態がつくりだされなければならない。すべての革命的な要素のこの集合の場所は、経営組織を土台としてつくられた労働者同盟である。ここに、労働組合を脱退せよ! というスローガンに従うすべての労働者たちが統一されなければならない。


実に「戦闘的」な言葉だ。だがこの言葉の衣を身ぐるみはぎ取ってみると、教条主義と日和見主義の混ざり合った本質が表れることを丸ごと明らかにする痛快な論文だ。

この論文からまず第一に何よりも感じられるのは、数々の出来合いのスローガンや公式ではなく、具体的な事実そのものや歴史的な経験に常に依拠し、謙虚に学ぶ姿勢である。これに対して当時の「サヨク」たちは、現実を観念から作り上げたスローガンで裁断してみせる。複雑な現実を捨象し、単純な「革命的戦術」に依拠しようとする。特に笑ったのは、「サヨク」たちの「議会主義は寿命の尽きた闘争形態だ」という認識に基づく議会闘争一般を否定する見解をいさめた次のくだりだ。

「数百万」または「数軍団」のプロレタリアがまだ議会主義一般に味方しているばかりではなく、あからさまに「反革命的」である場合、「議会主義は政治的に寿命が尽きた」などとどうして言えるのだろうか?! あきらかに、議会主義はドイツではまだ政治的に寿命が尽きていない。あきらかに、ドイツの「左派」は自分の願望、自分の観念的=政治的態度を客観的現実ととりちがえたのである。


また第二に強く感じられたのは、いかに依拠すべき大衆が反動的な性質を持っていようとも、あくまでも大衆とともに進もうとし、大衆とともに経験に学ぼうとする姿勢だ。議会主義についてこう語っている。「大衆とともにある」とはどういうことだとレーニンが考えているかがわかる文章だ。

ドイツの共産主義者たち(「サヨク」たちのこと)にとっては、議会主義は「政治的に寿命が尽きている」。だが、問題はまさに次の点にある。つまり、われわれにとって寿命の尽きたものでも、それを階級にとって寿命の尽きたもの、大衆にとって寿命の尽きたものととりちがえるべきでないということである。・・・諸君は、まさに全階級(その共産主義的前衛だけではない)、まさに全勤労大衆(その先進的な人たちだけではない)の意識と覚悟の現実の状態を冷静に注視する義務がある。・・・さもなければ、諸君はただのおしゃべり屋になる恐れがある。


いかに「反動的な」大衆であろうと、その大衆に対して語りかけ働きかけること。そこにこそ本当の革命家にとっての「学び」があると、レーニンは固く信じているのだ。

いかにロシアでの経験から謙虚に学ぼうとしているかがわかる文章がある。レーニンは、妥協は許される場合もあるし許されない場合もある、という。だが、具体的にはどういう妥協が許されないのか教えてくれないのか? そう我々は問いたいと思うことがある。だが、この問いは無意味だ。我々は我々の頭で考える必要がある。

・・・もちろん、政治では、ときには、階級間、政党間のきわめて複雑な・・個々の国の、また国際的な・・相互関係が問題となるので、あるストライキの「妥協」が正当なものか、それとも・・裏切り指導者の配信的な「妥協」か、等々といった問題よりもはるかに難しい場合が非常に多い。あらゆる場合に当てはまるような処方箋ないし一般的な基準をつくりだすことは、ばかげたことである。個々の場合を判断できるためには、自分の頭で考えねばならない。


僕らはよく物理学の法則について「適用限界」の話をすることがある。ニュートンの運動の法則は光速に近い速度で運動する物体には適用することができない。ミクロの物体の法則は量子力学による記述が必要だ。社会に対する法則性を論じようとするレーニンの語りにも同様の表現が登場する。そしてそれは古い社会主義者への敬意に彩られている。

新しい政治的思想の信用を落とさせ、それを傷つけるもっとも確実な方法は、それをまもると言いながら、それを不合理なものにしてしまうことである。なぜなら、あらゆる真理は、(老ディーツゲンが言ったように)それを「極端なもの」にし、それを誇張し、それを現実に適用しうる範囲外に押しひろげるなら、それを不合理なものとすることができるし、またそのような事情のもとでは、真理はどうしても不合理なものに変わらざるを得ないのである。



備忘として、まずはここに書き連ねておく。
特に、お題目を振りかざして現実を裁断しようとする傾向を、そして、「進歩的でないから」という理由で大衆を見限り、内輪でのみ通用する論理で現実と切り離された空想の戦術を描こうとする傾向を戒める教訓として。すなわち、現実に対する科学的なスタンスを忘れ去る誤りを戒める教訓として。


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わにぞう

  • Author:わにぞう
  • 理系研究者です
    自転車で遠くに行くのが好きです
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