わにぞう日記
日常のなかでいろいろと見たり考えたりします。でも、多くは忘却してしまいます。何かの時に思い出せるように。交流の中で意見が深められたり変わったりするのもおもしろいですね。
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片山杜秀氏に明日から密着
ひとつ前のエントリーで触れた内田樹さんの記事にあった片山杜秀氏の本を僕はまだ読んだことがなかった。
でも、明日の昼休みは片山氏の本を買いに行くことに決めた。

近代日本の右翼思想 (講談社選書メチエ)

国の死に方 (新潮新書)

この2冊にまずは着目したい。
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内田樹のナショナリズムに対する視点
ちょっと前に内田樹さんの文章にめずらしく苦言を呈したことがある。(「国民国家とグローバル資本主義」にて)

だが、国民国家の賞味期限が切れかけている。という認識には与すことはできない。国民国家とは、少なくともその国家の国民はその国家の主権者として、国際社会ではも独立国家としての主権を持って行動することができる可能性のある現存する唯一の制度だ。国民国家がその役割を果たすこと以外に、国際社会の秩序を民主的に守るすべなどあるのか? 僕はないと思っている。国民国家の果たすべき役割への尊重を安易に放り出してはいけない。



でも、内田樹さんの最新のエントリー「『ポストグローバル社会』とナショナリズムについて」を読むと、この点の認識に少し変化があるように思う。

もうひとつは、近代日本政治史をもう一度勉強し直さなければならないという気分が醸成されたことである。
直接には中島岳志さんや片山杜秀さんの近代ナショナリズム史の読み直しの仕事に触発されている。
渡辺京二や松本健一がナショナリズムについて書く理由はわかる。あるいは半藤一利が司馬遼太郎の衣鉢を伝えようとする気持ちもわかる。
でも、1960年、70年代生まれの若い研究者たちが玄洋社や農本主義や軍制史を研究する動機は、すぐにはわからない。
でも、この領域の研究に緊急性があるということは、私にも直感されている。
現に書棚を振り返ると、ここ数年のうちに北一輝、頭山満、大川周明、権藤成卿、宮崎滔天といった人たちについての研究書がにわかに増殖している。
どうしてそういう思想家たちに興味がわいたのか、自分でもよくわからない。
ツイッターにも少し書いたけれど、現代日本に瀰漫しているナショナリズムは「ナショナリズムとして空疎である」という印象が私にはある。
ナショナリズムというのは、こんなに薄っぺらで、反知性的なものであるはずがない。



僕もこの十数年間、旧来の左翼的な読書遍歴に、明らかに異質なナショナリストたちの書物が加わり始めた。頭山満、大川周明、石光真清ら。そしてこういう傾向は、おそらく多くの読者は驚くかもしれないが、むしろマルクス・エンゲルスらの系譜によって触発されたものだ。ここについては内田さんの文章がわかりやすく説明してくれている。

「人間はここまで英雄的になることができるのか」と感動させられるものもあった。そして、後者のほとんどはナショナリズムに駆動されたものである。
そのことはマルクスも認めている。
アメリカの独立戦争も、フランス革命も、多くの人々が祖国と同胞のために、おのれの命も財産も自由も捧げた苛烈な闘争の成果として得られた。これらの英雄的・非利己的な献身によって近代市民社会は基礎づけられたのである。
そして、私利や自己実現と同じくらいの熱意を以て公益を配慮するような人間をマルクスは「類的存在」と呼んだ。
<略>
それなしではいかなる革命闘争も実現しない。
そのことをマルクスは知っていた。
近代日本のナショナリストたちのうちにも、遠く「類的存在」を望見した思想家がいたのではないか。



アメリカ独立戦争・フランス革命以後のすべての英雄的な「解放闘争」は「民族解放闘争」として行われた(残念ながら、成功した革命の闘士たちは必ずしも統治者としても類的であり続けたわけではないが)。
そして、民族の枠を超えたスケールの「セミ・グローバルな政治闘争」として私たちはスターリン主義とアメリカ帝国主義というふたつの頽落形態しか知らない。
近代の政治的経験から私たちが導き出すのは、「ナショナリズムと類的存在を架橋する」細い道以外に、政治的選択肢として可能性のあるものはなさそうだということである。



こうした文章は、中島岳志氏や片山杜秀氏との対談の中ではぐくまれたものだという。漂流する日本の思想界を横目に、時代を拓く流れは確かに脈打っているのだ。
TPP交渉参加表明は公約違反である
レトリック(rhetoric)である。
TPP参加には非関税障壁の撤廃やISD条項をてこにした日本の主権の制限をはじめとする深刻な問題があり、日本の国益にそぐわない。ところが、安倍首相はTPP参加をすぐにも表明しようとしている。TPPを関税の問題に閉じ込めるとともに、自由化に例外があるかどうかに矮小化し、日米共同声明を歪曲し、例外が認められる可能性がないことはなかったことにする一方、その些末なあやしい「勝利」を全面勝利であるかのようにマスコミに描かせ、世論は誘導され、参加表明に至ろうとしている。
例外が認められる可能性自体が怪しいものだが、「例外がある可能性があるかどうか」をなぜ我々はメルクマールとしなければならなくなったのか。こんなマスコミの誘導的問題設定をけとばせ。「例外があるかどうか」とはつまるところ、大部分の完全自由化の容認だ。また、「可能性があるかどうか」はつまるところ、わずかでも不透明な要素があれば満たされる事実上無意味な条件だ。
レトリックだ。下手な部類の。

もともと自民党のTPP問題の公約は「例外がある可能性があるかどうか」ではなかった。

自民党HP「TPPについての考え方」

・・・こうしたことを踏まえ、わが党は、TPP交渉参加の判断基準を明確に示します。

(1)「聖域なき関税撤廃」を前提にする限り交渉参加に反対。
(2)自由貿易の理念に反する自動車等の工業製品の数値目標は受け入れない。
(3)国民皆保険制度を守る。
(4)食の安全安心の基準を守る。
(5)国の主権を損なうようなISD条項は合意しない。
(6)政府調達・金融サービス等は、わが国の特性を踏まえる



こうして自民党のTPPに関する対抗政策の柱とされたISD条項に関しては争点の矮小化により一向に報道されない。かん口令が敷かれているとしか考えられない。

面白いことが分かる。googleで「TPP ISD」でニュース検索をしてみることをお勧めする。

朝日・毎日・読売・産経のどこにも、この両方を同時に含む記事はひとつもひっかからない。引っかかるのはほぼ二紙のみ。しんぶん赤旗と日本農業新聞である。

ISDがお隣韓国で猛威を振るい始めているにもかかわらず。
激動イスラム 第1回「アラブの春はどこへ」
表記のタイトルのNHKスペシャルを見た。きっちりみられる状態にはなかったので、以下の感想にはいくらかの私の偏見が入っている可能性がある。また再放送をビデオ撮りできそうなので、これを精査する余裕があれば、より自信を持った見解を表明できるかもしれない。だが、このままにしておくと第一感を忘れてしまう。ともかくも書き留めておくこととしたい。

以前のエントリーで、エジプトの民主化(アラブの春)の流れが、イスラエルのガザに対する軍事的暴虐の手を縛ったことについて喜ぶ記事を書いた。
エジプトは確かにモルシ政権の下、かつての米国傀儡の軍事政権のくびきから離れ、イスラム諸国を含む諸国との自由な連携の道を歩んでいる。国内的には多数を占めるムスリムの立場を代表する政権を打ち立てた。このことにより国民が国家主権を行使できる可能性を開いた。この流れは同時にイスラエルのやりたい放題できる条件を打ち砕いた。自分的には大変喜ばしい展開だと考えている。
一方で勿論、過去の米国の利益誘導や軍事的・経済的支配から自立することは困難を伴う。大局において、きわめて大きな困難に直面することは必然である。生活は簡単には好転しない。このことからモルシ政権への不満を強める向きもあるに違いない。

この番組は、こういった経済状況への国民の反発や、財界人など「識者」の懸念を「公平」に伝えて見せる。また、観念的な民主派の中にはおそらく米国万歳の立場に立つものもいるだろう。もちろん旧支配層の下でうまい汁を吸っていた層も支配的財界人を中心に分厚く広がっていることも想像に難くない。番組には、このような反モルシの流れの発展にアラブの春本来の流れを見て、これを抑えようとするモルシ政権を、アラブの春に対する逆流として映し出そうとする「良識」的前提を感じる。モルシ政権の独裁的志向への反発にのみ正義を見るのは、権力の奪取という現実を十分に見ることのできない観念論ではないのか。
モルシ政権の機敏な軍への対応については番組でも紹介されていた。あらゆる手段を使って軍を威嚇・懐柔し、権力に取り込んでいく様は痛快でもあった。だが、番組のスタンスはやや歪んでいるように思えた。現政権に協力的となった旧高官との現実的妥協と協調をややもすると否定的なニュアンスで伝えたがっているように思えてならなかった。軍を取り込む姿勢を軍事国家づくりへの志向ととらえてしまう傾向はないだろうか。だが、国家権力の把握において軍ほど重要なものはなく、革命をするなら何があろうとも取り込む必要がある。
同時に、憲法をめぐる原理的民主主義者とモルシ大統領の現実的対応との間の矛盾も紹介された。ここでも、諸問題の解決を目指す現実主義の立場よりも、三権分立、宗教の完全分離などの原理的民主主義の立場に親和的な「良識」が見え隠れするように思えた。
欧米のフィクサーのような何やら怪しげな人物を登場させ、モルシ政権の真の目的は「イスラムによる世界制覇」だと語らせているのは基本的センスを疑う。トンデモに近い議論だと考える。

番組の材料そのものは新鮮であり、リアルなものだ。取材と番組への編成については、心より敬意を表しておきたい。

しかし気になることは、米国や欧州=民主主義派=平和主義派にして開明。イスラム=独裁派=軍事派にして蒙昧。という抜きがたい図式があり、無意識のうちにこの図式から問題を理解する傾向が番組にもあるように感じられることだ。大方の視聴者の反応もこの通りのものだろう。期待される流れの通りに情報を読み取ることになる。たびたび一方的なチャベス独裁論を流してきた過去ともつながる、「良識」的マスコミの抜きがたい偏見に対し、それでも僕はあえて反旗を翻したい。アラブの春の流れは、イスラム的価値観の下に憲法や民主主義的仕組みを打ち立てようとする努力の中にも変わらず息づいているとみる。権力を維持しようとする流れとそれに対する国民的な批判の両面の正義を読み取ることが求められている。
ムスリムの立場を代表する政権とそれを批判する世論のせめぎあいの中から道を見出す叡智を、エジプトは発揮してい行くことになるだろう。
今後紆余曲折があろうとも、おそらくエジプトは分厚いイスラムの流れに乗り、自律的な主権国家づくりへの道を歩み続けるだろう。また、イスラエルによるガザに対する暴虐の手を縛った流れは本物だと考える。日本の「良識」的マスコミはこの流れの意義を決して理解できず、米国や欧州の立場を無意識的に代弁し、イランやハマスに接近したとみれば否定し、大局を握るための政権の現実的対応を変質と描き、深刻な「疑問」を提示して見せ続けるだろうけれども。
平和的解決を望む立場を表明する
日中関係はいろいろな意味で不安定である。その不安定性の引き起こし得る可能性の一つとして、軍事衝突の危険性も否定できない。可能性は低いことを祈るばかりではあるが、このことを念頭に置いて、平時の今こそ、一つの立場表明が必要だろうと考える。

戦争は甘くない。殺し殺される状況下で自国国民の生命を守る立場に立たざるを得ないとするならば、取りうる行動の自由度はゼロに等しい。必然は殺し殺される関係の拡大に導く。

だからこそあえて平時である今、立場を明らかにしておく必要がある。尖閣諸島の問題を軍事的衝突に発展させてはならない。どういう経過をたどろうとも、軍事的衝突の連鎖は回避しなければならない。軍事的衝突の回避こそが、そしてもし軍事的衝突に至ったならば、その終結こそが真の国益である。
軍事的衝突に至った場合、当ブログは衝突の終結のために力を尽くす。このことは、戦争の遂行にあたっている同胞たちの努力に対して逆行することになるだろう。だけれども当ブログは戦争終結のための努力をする。

真の国益は戦争の回避にあることを確信する。この国益に忠実でありながら、同時に軍事的衝突の個々の局面における「国益」に協力するなどと言う器用な行動はできない。世の中はそんなに甘くない。非国民のそしりを受けようとも、軍事的衝突終結のために役立つ行動をとる。日本の主張に正義があったとしてもだ。日本が軍事的に優位に立つか否かによらずだ。平和は重要な価値であり、叡智である。平和を守る立場は、時に非国民のそしりを受けることは古今東西の歴史が証明している。だが当ブログは真の国益の立場に立つつもりである。

もうひとつ。尖閣諸島の防衛にとっても、軍事的衝突の回避は決定的に重要である。まず日本は尖閣諸島の領有において理論的優位に立っている。さらに、実効支配をしている。この状態の変更を物理的に仕掛けるとすれば中国の側であり、この時点で一方的に非難されるべきは中国である。この国際社会における政治的立場を、軍事的衝突を受けて立つことによって、ましてやそれを仕掛けることによって、手放してはならない。

「国際社会のルール? そんなお話はお花畑だ」 とおっしゃるかもしれない。だが、ではこういう「お花畑」が通用しない国際社会とはなんなのか。軍事的に強いものがすべてを取る国際社会ではないか。よろしい。国際社会はそんなものだと仮定しよう。であれば、おそらく人類はもう持たないだろう。エネルギーも水資源も逼迫していく。温暖化は国際的に対処が必要な課題をさらに加速する。軍事力だけが支配する国際関係を前提とすれば、深刻な戦争状態に世界を導くだろう。国際社会の協同によってしか解決しない問題は置き去りにされ、世界は破たんする。
国際社会のルールを大切にすること。常にそこに依拠すること。苦しくともこの道を行くしかない。当ブログはそう確信している。
侵略戦争を反省する立場の深化
1945年にともかくも終結した戦争について、日本には全く責任はなく、なんら世界に愧じなければならないような行為はしておらず、正義の戦争を行ったまでだ。とする思潮が、ここ10年ほどの間に大きく広がりを見せ、一定の力を持つにいたっている。いや、2chの一部などの空間においてはむしろ場を支配する常識と化し、この認識を基調にしなければなんら影響力のある書き込みをすることは不可能な状態にある。
2chの空間は、その場において支配的な空気がどのようなものであるかを認識したうえで実効的に意味を持つ書き込みをしなければならない特殊な空間だ。この空間で日本万歳論が主流であることと、国民世論や書き込みを実際している層の本音がそうであることとは必ずしも一致しないのかもしれない。だが、20世紀末とは大きく言論の基調が変わったことは明らかである。

とはいえ、先の戦争がアジア諸国という多民族の生活する空間において日本軍主導で行われたことは、惑うことなき事実であると僕は思っている。他の列強と同様に、周囲のアジア諸国を蔑視し、その地域を版図とする野望を日本は持っていた。戦場の理不尽な実態も働いて、多くの同胞の先人たちが、あるいは恐るべき暴虐を働いたこともあったに違いない。日本人だけが戦場において聖人君子のような振る舞いができると考えるのは非現実的であるし、そのような選民的な立場は誤っていると思う。また、同じ理不尽は日本軍の内部において深刻な表れをしており、多くの善意の日本人兵士たちを地獄の底に叩き落とし、命を奪ってきたことも事実だろう。終戦の決断を遅らせ、多くの無辜の日本人を死に追いやったことも事実だろう。

こういった歴史的事実に対して向き合うことなく、日本の侵略戦争と国民軽視の愚行の歴史を直視せず、歴史を偽造する立場に日本が公式に立つならば。あるいは、2ch的な「ネトウヨ」的世論の表れを文字通り本当の世論と錯覚し、これに迎合して国策を誤るならば、現代の国際社会において日本は孤児と化すことを自覚するべきだ。従軍慰安婦の問題もそういった問題の一つである。

しかし一方で、こういう「ネトウヨ」的世論の背景には、米国の地位の低下のもと、引き続く日本支配の深化に対して、日本独自の立場を主張しようとする世論の屈折した表れがあることを注視しなければならない。国際社会において日本の国家主権を正しく主張しなければ、日本は生き残ることはできないからだ。
ここには日本の歴史を自分の言葉で語ろうとする思潮の広がりもある。また、当時の歴史を生きた先人たる同胞たちの思いに心を寄せる草の根の良心が根付いていることを忘れてはいけないのだ。こういう人々の動きに対して、単純な連合国史観万歳の立場から、あるいは戦後数十年たった時点での国際的合意や倫理の到達点の高みから、日本の戦争を外在的に断罪するような立場から対応してはならない。世論の断層を深め、対話を不可能にするだろう。本当に日本を世界の孤児にしてしまうかもしれない動きに実効的に抗うことはできない。

ここを解きほぐす日本民族としての言葉を紡ぐことが我々には求められているのだと感じている。
現代において平和を語る語り口
この点で頑張っているのはやはり編集長だ。今日ももひとつ引用してしまおう(「『武力の威嚇』の定義を広げると困るのは日本」より)。

中国艦船によるレーダー照射の議論はこれからが本番だろう。そのなかで、小野寺防衛大臣が、今回の行為が国連憲章にある「武力による威嚇」に該当すると、国会で発言して話題になっている。

これって、法的には議論になり得ることだと思うが、政治的には考えの足りない発言だと思う。政治家として、とくに防衛をあずかる大臣として、ちょっとどうかなあと思う。

・・・<略>・・・この間、北朝鮮が、米韓などの軍事演習を「武力による威嚇だ」と位置づけ、自衛権の行使だとして砲撃をしたことを覚えているだろう。威嚇の定義をひろげて軍事力行使を正当化しようとする国が目の前にいるときに、自分が定義をひろげる側にたってはいけない。困るのは日本でしょ。



そう。相手の土俵に踏み込み、北朝鮮に対する備えが必要だと思う多くの国民に対してもきっちり検討に値すると考えさせる論建てが必要なのだ。

サヨク的な9条問題の語り口からの卒業が問われている。

侵略戦争への反省を「気持ち良く」口にしてそれで満足してしまう傾向
軍備忌避、戦争反対を根拠にしてそれで満足してしまう傾向
平和的解決を叫んで、それで満足してしまう傾向

いずれも、9条信奉者の間でのみ成り立つ議論だ。国民の多数を惹きつけなければ護憲なんかできっこない。これだけチャイナリスクが叫ばれ、事実北朝鮮という挑発的国家が近くにある状態の下で、旧態依然たる軍事忌避の立場だけで勝負できると思う認識は甘すぎるのだ。9条ひいきのひいき倒しという結果が見えている。

編集長による「冒険」は本当に重要で必要なものだ。僕なりに可能な議論を組み立てながら、当ブログを運営していく所存である。
護憲派の踏みこみが必要だ
中国海軍によるレーダー照射の問題は深刻である。攻撃をする可能性を明示する行為であり、反撃に至ることを覚悟しなければならない。
こういった事態に、平和憲法の存在を唱えるだけでは多くの国民を納得させることはできない。護憲派の枠内に閉じこもって、平和憲法を信奉する集団の中でだけ了解される言動を消費してはならない。護憲派には覚悟が問われるというのは、編集長の冒険「中国海軍による自衛隊へのレーダー照射問題」

自衛隊の存在を否定する立場では提案そのものができない。軍事大国化し、軍事力の威嚇に平気な中国を前にして、護憲派には覚悟が問われていると思う。


覇権主義国の挑発の対象となった場合に、それに抗う立場の発展として、軍事的衝突に至らない知恵を発揮できるかどうかだろう。

国防軍の設置・改憲への動きは「陽動作戦」かもしれない
改憲を恐れる向きが多い。だが少し良く考えたほうがよい。改憲さえされなければいいのかどうか。

改憲はせずとも、集団的自衛権の行使を認める方向での解釈の変更が行われたらどうか。日本は米軍の戦争に大手を振って同盟国として参加できることになる。もしこれがイラク戦争以前に達成されていたら、自衛隊は他国の軍隊と同様に、殺し殺される関係を現地で余儀なくされただろう。

編集長の冒険「集団的自衛権─批判のために(序文・中)」より引用する。

要するに、自民党と安倍首相は、憲法改正が実現できるかどうかにかかわらず、集団的自衛権の行使だけはやりたいと願っているのである。国防軍の設置、あるいは憲法改正よりも、集団的自衛権の行使の方に、より緊急性があることを認めており、それを実現するためなら、どんな手段でもいとわないというのが、彼らの真意なのである。



改憲などせずとも、米国の要求に従って自衛隊を米軍の子分として世界に派遣することは可能である。これは、最初の安倍内閣時の「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」の結論であったことに留意するようお勧めしておきたい。また、現在の米国支配層の意向でもある。日本の国民主権の確立を望む立場から安倍内閣に改憲への期待をかける人々には特に。


プロフィール

わにぞう

  • Author:わにぞう
  • 理系研究者です
    自転車で遠くに行くのが好きです
    ↑は、日本最南端の碑

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