わにぞう日記
日常のなかでいろいろと見たり考えたりします。でも、多くは忘却してしまいます。何かの時に思い出せるように。交流の中で意見が深められたり変わったりするのもおもしろいですね。
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内田さんの教育観
いつもながら感心させられるので、内田さんのページを紹介。
「平松さんの支援集会で話したこと」(内田樹blog)より。
どうしてわれわれの世代は周りの友人たちと大きな視点から社会や周囲の問題を語り合うことを徹底的に避けるメンタリティーを持つにいたったのか?

これはまさに教育に競争原理と市場原理を持ち込んだことの結果です。閉鎖集団内の相対的な競争の優劣にだけに子供たちを熱中させたことの結果です。そのせいで、お互いに足を引っ張り合い、お互いの学力を下げることに懸命な子供たちが大量生産された。 
彼らを学習させるために、市場原理主義者たちは「自己利益」を道具に使いました。「勉強するといいことがあるよ」と利益誘導した。勉強すると、高い学歴が手に入るよ、いい会社に入れるよ、高い年収が取れるよ、レベルの高い配偶者が手に入るよ・・・というふうに教え込んだ。自己利益の追求を動機にして学習意欲を引きだそうとした。その結果何が起きたか。
たしかに子供たちは「努力」するようにはなりました。でも、それは学習努力じゃありません。「最低の努力で最大の結果を出す」ための、費用対効果のよい勉強の仕方をみつけるために知恵を絞った、ということです。「勉強しないで、勉強したのと同じ結果が得られる、もっと楽な方法」を見つけ出すための努力です。
一番確実なのは、まわりの子供たちの学習意欲を殺ぐことです。勉強なんかすんなよ。くだらねえことやめろよ、と説いて回る。この「まわりの子供に勉強させない」ために今の日本の子供たちが割いている努力は半端なものではありません。それだけの努力を自分の学習に向けたら、ずいぶん成績だって上がると思うのだけれど、それでは費用対効果が悪いから、やらない。だって、問題は費用対効果なんですから。


ここ数十年にわたって吹き荒れた教育観を一度洗いなおす時期に来ています。

教育というのは自己利益のために受けるものじゃない。君たちは次世代の集団を支えるフルメンバーにならなければならない。私利の追求と同様に、それ以上に「公共の福利」に配慮できる公民にならなければならない。僕たちは子供たちにそう言わなければならないんです。でも、今の子供たちは、「公共の福利」なんて言葉を聞いたら、たぶん鼻で笑います。われわれは30年かけて、「公共の福利」とか「社会的フェアネス」とか「市民的な成熟」と言った言葉を鼻で笑うような子供たちを作りあげてきたんです。いい加減、もうそういうのは止めなきゃいけない。


そして27日に問われる維新の会の教育観はどういうものか。

教育の目的は競争に勝つことだと書いてあります。競争に勝てる人材を育成することだ、と書いてあります。彼らは「激化する国際競争」にしか興味がないんです。だから、教育現場でもさらに子供同士の競争を激化させ、英語がしゃべれて、コンピュータが使えて、一日20時間働いても倒れないような体力があって、弱いもの能力のないものを叩き落とすことにやましさを感じないような人間を作り出したいと本気で思っている。そういう人間を企業が欲しがっているというのはほんとうでしょう。できるだけ安い労賃で、できるだけ高い収益をもたらすような「グローバル人材」が欲しいというのは間違いなくマーケットの本音です。
だから、ここにあるのは基本的に「恫喝」です。能力の高いものだけが生き延び、能力のないものは罰を受ける。国際社会は現にそういうルールで競争をしている。だから、国内でも同じルールでやるぞ、と言っている。能力の高い子供には報償を、能力の低い子供には罰を。能力の高い学校には報償を、能力の低い学校には罰を。そうやって「人参と鞭」で脅せば、人間は必死になると思っている。人参で釣り、鞭で脅せば、学校の教育能力が上がり、子供たちの学力がぐいぐい高まるとたぶん本気で信じている。そんなわけないじゃないですか。それはロバを殴ってしつけるときのやり方です。子供はロバじゃない。子供は人間です。


この教育基本条例は、案のままになるにせよ実現するにせよ、古い教育観のマニフェストとして、数年後には審判が下ることでしょう。
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ウィルソニアン的自由貿易論の「朝日」社説
朝日社説が本当に日本の国益から自由であることが話題になっている。
米中両国に利益をもたらす難しい役をどうやって日本が果たすかについてよくわからない真剣な議論をしていて痛い。
「朝日」は自国の国益を主張することを忌避しているとしか考えられない。
なぜか?

「朝日」は国際政治が成熟すると、どの国も自国の国益を主張することをやめるようになると信じているらしい。
それが国際社会のアプリオリな倫理であり、広めるべき価値である。ということだろう。

だが、自らの主権にすら真剣でない議論に、責任ある国際社会の展望など描けようはずがない。
国益と国益の盲目的な衝突になってしまえば、互いの国益はそもそも実現されないのだ。
だから、自らの国益に本気であればこそ、国益の盲目的衝突をどう回避するかという真剣な検討もなされるのだ。

国益の「克服」は、ウィルソニアン的「朝日」にとっては大切なお題目なのかもしれない。
だが、こういうお題目を広めることなどによっては国際社会は決して変わらないし、変わることはなかった。
むしろ各々の国益に真にこだわることで、国家間の成熟した関係は構築されていく。コンストラクティビズムの立場だ。

現実を見ない理想主義であるウィルソニアン的「朝日」の立場はすでに十分有害だ。

「朝日」にはかつて日本民族の立場から日本の戦争責任を追及する論陣を堂々と張った先輩がいる。本多勝一のことだ。
彼は同じ容赦なさで米国による日本民族を含む他民族の主権への侵害も追求している。
彼の本気の日本人としての論陣も受け継がず、行き着いた劣化「朝日」の姿がここにある。
中国もグローバリズムの大国。だからこそ必要な歴史観
グローバリズムの蔓延への抵抗は、今や国家主権の擁護のための国際社会の喫緊の課題である。
中国の当面する「国益」はグローバリズムに適合的である。
一方、日本の未来はグローバリズムの抵抗によってしか開かれない。
この抵抗のカギは、諸民族の自決権を強く原則的に保障する国家間関係の確立にある。

日本の戦前・戦中の歴史を描くやり方の中には、日本の国益を盾に膨張主義を肯定する立場からのものもある。
その中にはたとえば朝鮮併合を朝鮮のためのものだったとして肯定するものもある。
この見方はあまりにも日本本位であるとはいえ、少なくない日本人が採用している。
だが民族自決権はこうした「善意」からの干渉そのものも否定するルールである。
日本の膨張・干渉は善意からのものであり、欧米のそれは帝国主義的野望によるものであると言いたいかもしれない。
しかし、民族自決権のルールは、それぞれの国の善意によって守られるものではないのである。

もちろん、時代背景の異なる現代と機械的に比較してはいけない。
だから、戦前・戦中の日本の膨張・干渉は当時の帝国主義的国際ルールの下で当然のことだというかもしれない。
だが、現代のグローバリズムに抵抗する仕組みは、干渉を排する民族自決のルールにこそある。
このルールは二度の世界大戦を通じて帝国主義的領土・権益争奪戦に抵抗する教訓として確立した。
現代においてグローバリズムへの抵抗の論理を引き出すためには、20世紀2度の世界大戦の評価は避けて通れない。

日本の戦争は帝国主義ではなかった、防衛のため仕方がなかったといいたい人も多いかもしれない。
(僕は、一度はアジア・太平洋の広大な領域を版図とした戦前日本の膨張政策は、帝国主義だと考えているが)
しかし少なくとも、大戦中の日本の膨張・干渉主義を、当然と開き直ってはいけない。
民族自決というグローバリズムへの抵抗の最強の道具は、大戦中の帝国主義的ルールへの痛切な反省に基づくからだ。
グローバリズムと闘って日本国民のくらしを守る立場と、大戦中の日本の歴史評価は深く関係している。

民族自決を踏み破る行為には「よい」も「悪い」もない。だからルールなのである。
ある国の干渉は「よかった」が、ある国の干渉は「悪かった」という評価を一つ一つ下す実践的意味はない。
国際社会の倫理やルールはそんなにわかりやすくできていないからである。
各国(民族)の主権はあらゆる他国の利益に優先するルール。そこには善悪を超えた大戦中の歴史への反省がある。
国家(民族)主権は現代社会がこうして手にした大国常勝のグローバリズムに抵抗する最大・唯一の道具である。

グローバリズム大国中国の思惑に備えるためにも、歴史観をめぐる日本の立場の確立が重要である。
中国との歴史関係における最大の棘が大戦中の関係性の近くに突き刺さっているのでなおさらである。
ただ「反省しています」というかどうかという問題ではない。
二度の大戦の本質と教訓をどう見るか。その中で日本はどういう役割を果たしたのか。
現代のグローバリズムへの抵抗の論理との関係で説得力を持つ歴史観を確立しているかどうかが問われるのだ。
二つの認識
ひとつはTPPについて考える中で得た確信。
日本国民をはじめから「改革派」と「守旧派」二つに分け、外圧をてこに、望むべき未来に向けて改革派を持ち上げる議論のすべてを基本的に拒否すべきであるということ。これはその中身によらない。生き馬の目を抜く国際社会の下で、民族の(「国家の」ではないよ)団結は何にも増して重要である。
もう一つは原発問題について。
エネルギー問題については、「原発への依存の継続」か「自然エネルギーの育成」かが問われている。だから、まず「どちらを選ぶのか」を迫られるし、人にも迫りがちだ。ここで原発依存の継続の可能性を口にでもしようものなら、もうとんでもない人でなしであるかのようにののしられるかもしれない。でも、「原発継続」についてもいろいろである。現在の原発推進共同体を本気で解体し、技術を大幅に見直し、監視機能を全面的に構築し直し、慎重な立場から必要な検討を加えたうえでの原発継続だってありうる。だから、「原発継続」を言うかどうかの入り口で切り捨てることには意味はない。むしろ、ならばそのうえで、現在の事態を招いた原発の問題点の数々をいかにして克服するのかに関する本気での検討があるかどうかを真摯に問うべきだ。本気での検討は、真に責任を負うべき勢力への痛烈な批判が含まれるはずである。そういう「原発推進」論ならば頭から否定することは適切ではないし、そういう原発否定論は、国民的な理解を得られないものに終わるだろう。本当に安全な原発のありようを真剣に追求するものであるならば、それを尊重する度量を反対派も持つべきだろうと僕は思う。
TPP交渉参加表明
僕としては今までと何も変わらない。問題点を指摘してTPP批准させないよう力を尽くすのみだ。

一部民主党内の「反対派」の人たちの豹変が笑える。

山田正彦前農林水産相は11日夜、衆院議員会館で記者会見し、交渉参加をめぐる野田佳彦首相の記者会見の内容について「ほっとした。交渉参加表明でなく、事前協議(の表明)にとどまった」と評価した。山田氏は「(首相は)党の提言をくんで踏みとどまってくれた」と語った。


原口氏のtwitterから

総理会見を同志とともに聞いています。交渉参加に向け関係国と協議ということを総理は会見で言いました。これを参加表明という記者がいますが、あくまで予備的交渉を言っているのであり、今までの情報収集をより念入りにやるということであるはずです。


泰然と反対の立場を続けてほしいところなのだが、そうもいかないのだろう。交渉参加表明という明々白々な事実をゆがめて説明しないといけないらしい。みっともない転身だ。国家主権を守ることすら非常に困難な事態にあることがわかる。思った以上に二大政党の壁は大きい。本当に党を割らせるような動きにしていかなければならない。
今の「保守」政治家にはほんとうに哲学がない。あるとすれば新自由主義の「哲学」くらい。だから多くのTPP「反対派」も、農業利権に尻尾を振るくらいが関の山だったのだろう。確信をもって「開国」論に抵抗する哲学がない。だから何とものどかでみっともない変節をして恥じるところがない。

今更それを嘆いても仕方がない。

反対派はしっかりした「哲学」を掲げ、「松下政経塾的なもの」にどっぷりつかった政治家を指導しなければならない。国家主権は国民の権利を守るとりでであること。国民の中に「改革派」と「守旧派」を作り出して外圧で後者をたたきつぶし続けることだけが正しい社会の在り方なんかではないことに気づき、支えあうという機能を社会は持っていること。
あいまいな世論調査とマスコミ報道、谷垣サン
TPPについてはいよいよ賛成と反対が拮抗してきた。共同通信の世論調査(日本経済新聞)。

共同通信が5、6両日に実施した全国電話世論調査で、環太平洋経済連携協定(TPP)参加問題をめぐり「参加した方がよい」は38.7%、「参加しない方がよい」は36.1%と賛否が拮抗していることが分かった。参加した場合の影響を政府が「説明していない」との回答は計78.2%に達し、「説明している」の計17.1%を大きく上回り、政府の姿勢に強い不満をうかがわせた。


いい傾向だ。でも、この世論調査の紹介が妙にあいまいで、結局どう判断していいのかわからないやりかたになっている。
上記の記事をどう読んだらいい? 「TPP参加問題を巡り」って何? TPPの協定参加? TPP協定へ向けた協議への参加? 実に基本的な問題なのに明示しようとしない。どの報道を見ても、結局どちらなのかがわからない。
意図的なのかどうかはよくわからない。もしかすると協定参加と協議参加の意味の違いすら分かっていない?

そういえば谷垣サンのインタビューが「TPP賛成ねつ造」なのではないか、とさわがれれた事件があった。あのインタビューもひどいもので、「TPP交渉参加」に賛成を表明、ということだったのだけれど、この「交渉」が、TPPに関する政党間の交渉のことなのか、それともTPP協定に関する交渉のことなのか、こんな基本的なことがあいまい。だから、このインタビューは「谷垣サンがTPPに否定的だ」という風にも、「TPPに肯定的だ」という風にも取ることができた。子どもの使いみたいなインタビュアーですね。

重要なことなんだから、はっきりしてもらいたい。
大阪府教育基本条例案を見てみる
とりあえず見てみるところから。

(基本理念)
第2条 府における教育行政は、教育基本法第2条に掲げる目標のほか、次の各号に掲げる具体的な教育理念に従ったものでなければならない。
  三 他人への依存や責任転嫁をせず、互いに競い合い自己の判断と責任で道を切り開く人材を育てること
  四  不正を許さず、弱者を助ける勇気と思いやりを持ち、自らが社会から受けた恩恵を社会に還元できる人材を育てること
  六 グローバル化が進む中、常に世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争に迅速的確に対応できる、世界標準で
    競争力の高い人材を育てること


「他人への依存や責任転嫁をせず、互いに競い合い自己の判断と責任で道を切り開く人材を育てること」が大切だと僕も子供のころは思っていたかなぁ。でも、自分の能力だけで物事を切り開くなどという突っ走りがいかに迷惑なものであるかをほどなく学んだように思う。この条文「三」を単に素晴らしいと言う人がいるとしたら、相当幼いか、本当に社会の中で(あるいは学校の中で、でもいい)、みんなで何かを成し遂げたことがない人なのではないか。
機能する組織というものは、僕の経験から言うと、それぞれがほかの人に依存をし、互いの責任の在り方を分担し、それでも互いに助け合い、自己の判断と責任だけで暴走せずにマメに相談し、みんなで道を切り開くものだ。この条文「三」みたいな人を大量生産するのはやめてもらいたいものだ。
もしかすると、この条例を欠いた人々は、学校ではそういう人々を育てておいて、社会に出てからそういう人間観、組織観を打ち砕かれてまともな社会人に成長することを予定している、ということなのかな? とうがった見方をしてみたりする。えっと、そういうことなの?
「社会から受けた恩恵を社会に還元できる人材」という。要するに、個々の国民と社会の関係はイーブンイーブンであるべきだと言っているのである。お返しいただけない迷惑な人が生じないような社会が、この条例案の理想なのだ。そして例によって「グローバル社会だから」の呪文を持ち出している。そしてまた競争力だ。

個人の自由な競争によって成長する社会。このようなおめでたい人間像、社会像は無効化しつつある現代の目から見ると、ものすごくレトロスペクティヴなものだ。平成の入り口のころの風潮から何も進歩していないらしい。当人たちは世界の先端を走っているつもりでいるから、困るのは周囲だ。

第5条  府における教育行政は、教育委員会の独立性という名目のもと、政治が教育行政から過度に遠ざけられることのないよう、選挙を通じて民意を代表する議会及び知事と、府教育委員会及び同委員会の管理下におかれる学校組織(学校の教職員を含む)が、地方教育行政法第25条に基づき、適切に役割分担を果たさなければならない。


これぞ機械的民主主義。良識的な人ほどこれに反論しにくいだろうからきっちり考えておく必要がある。なぜこのような「民主主義的な」主張が問題なのか。かつて教育基本法改定にかかわって論じたエントリー「教育基本法改定に反対する」で論じたものを引用しておく。

国家が国民の育成のための教育内容に関してなんらかのビジョンを持つことについてわにぞうは決して否定しない。しかし、このビジョンに沿って行政が教育に関わっていく際には、慎重な態度が求められる。政治には常に独特な力学が働いている。教育が重要であるからこそ、政治からの教育に対する要求もきわめて強いものがある。この激動・変転する政治力学に教育を直接さらしてはならないとわにぞうは考える。最悪なのは、政権の都合で子供の持つべき資質が一面的に押しつけられることや、短期的な視点で教育内容がクルクル変わることだ。こういう事態からは教育を守らなければ、次世代に対する取り返しのつかない損失を生み、国の発展もおぼつかない。
現行教育基本法はこういった認識のもとで、教育とは国家や行政の道具ではなく、国民に直接開かれて行うものであることを宣言している。そして、第10条で「不当な支配に服することなく」と規定する、という手段で、行政側からの不当な干渉の危険から教育を守る方法をとっている。この不当な支配の主体には限定がなく、第2項と合わせて解釈すれば、政府等もこれに該当すると判断できる。
政府改定案はどうか。この法案は行政機構については性善説に立っており、「自主性を尊重(第7条(大学教育)・第8条(私立学校)など)」などといった留意事項がごく一部にあるものの、法律の範囲内で、政府・地方自治体の裁量によって自由に教育行政を実行できる構造になっている。第10条の改訂になる第16条で「法律の定めるところにより」と規定することによって「不当な支配」の主体から行政機構をあらかじめ排除している。こうして、最も巨大な力を持つ学外権力である行政機構に対する歯止めだけは取り払われている。
わにぞうには、政府案が採択された未来において、教育が時の行政によって恣意的に左右されるおそれを払拭することはどうしてもできない。かなり強い危機感を持って、この教育基本法改定案に反対せざるを得ない最大の理由はここにある。


なお、現行教育基本法では教師を直接国民にたいして責任を持つ存在として規定している。改定案ではむしろ法的に規定された教育行政を遂行する責務を持った存在ととらえらえる。わにぞうは前者の立場に立ってこそ教師の誇りは育つと考える。教育委員会の方を向いていじめを隠蔽する報告に汲々としている教育現場を見るにつけ、今回の改定案は百害あって一利なしだと判断せざるを得ない。


最後に、次の規定について。親が部活動に出ていくようになるんだそうだ。

2  児童生徒の保護者も、部活動をはじめとする学校運営に参加するなど、主体的に積極的な役割を果たすよう努めなければならない。


僕は中坊のとき、家庭の庇護から離れた部活という空間での戦いに誇りを持っていたように思う。ここに親が出てくるのは正直げんなりする。

まぁ今日のところはこれくらい。あんまり系統的によんだわけではないけれど、とりあえずろくな条例案じゃないな。
売れないコメ農家に「戸別保障」の問題
TPPに農家の反対があるから、農産物が売れなくなって収入がなくなった農家に対して戸別保障という「対策」をするという話が出てきた。これで鹿野は妥協をするという。
これはどういうことになるのかというと、「売れない農産物を農家は作り続けなさい。お金は上げるから」ということ。作ってもだれも買ってくれない農作物を作り続けろということ。こんな状態で農家が誇りを持って仕事を行えるのか? これこそ農家の総「公務員」化にならないのか。それも有意な仕事をさせてもらえない「窓際の」。

僕の解釈のどこかが間違っているのかなぁ? またよく考えて、変だと思ったら訂正しますが・・
まだほかにも書きたいことがあるけど、また明日以降に
TPPについては、推進派の「反論」のようなものが出ている(「食料自給率の低下は、TPP反対の主因となるほど悪いことなのか」【出口治明の提言】)。だが、突っ込みどころが多い。怪しからんので批判をしておきたい。
また、内田さんのブログを読んでいて、大阪の橋本氏の教育論をぜひとも批判しておく必要がありそうだと感じた。

流れが動く前に、いずれもかきこんでおきたい記事である。明日からの仕事に備えて、もう寝ます。残念ですが、明日以降に。
内田さんの紹介する下村治氏の経済論
内田さんのブログ記事「雇用と競争について」(内田樹の研究室)から。下村治氏の『日本は悪くない、悪いのはアメリカだ』(文春文庫. もとの単行本は1987年の出版)を紹介しながら論じている。

国民経済というのは、このグローバルでモノトーンな世界に対して、ローカルで、自律的で、カラフルな経済環境を対置させようとするものである。
世界は同心円構造ではなく、サイズも機能も異なるさまざまな国民経済圏に「ばらけている」方がよい、という考え方である。
その方が個別的な「経済圏」の中に暮らす人々を「食わせる」ことのできる可能性が高いからである。
下村によれば、国民経済は、生産性の低いセクターで働く人たちでも「食える」ように制度設計されている。
それだけでもたいしたものだ、と下村は考えている。


経済を国民の暮らしの側から見る。大して生産性が高くなくとも、普通に社会で役割を果たして努力をしているならば、そのような人々が幸福な生活ができる保証を与えるために国家はある。ということだ。ところが、現代の国家は、人々の暮らしの成立のうえに、経済効率性の向上を置いた。その途端に生産性の高い一部の産業がぎりぎりまで減らされた人員によって維持され、極端な労働強化が行われる一方で、雇用は失われ若者が非正規雇用にとどめられて困難に陥っている。

今の日本における若年層の雇用環境の悪化は「多くの人に就業機会を与えるために、生産性は低いが人手を多く要する産業分野が国民経済的には存在しなければならない」という常識が統治者からも、経営者からも、失われたからではないのか。


完全雇用(食わせること)が国際競争力の向上の「目的」であり、それゆえ、それに「優先する」と断言する人を、私は見たことがない。


のである。
それでも経済効率性が大事だとするグローバリストの言い分は、

たしかに一時的に雇用は減るが、生産性の高い産業が日本経済を牽引して、いずれその突出した成功をおさめた国際的企業の収益が下々のものにも「余沢」を及ぼし、雇用は回復することであろう・・・


というものだ。これに対する下村治の言葉は以下の通りだ。

「それぞれの国には生きるために維持すべき最低の条件がある。これを無視した自由貿易は百害あって一利なしといってよい。(・・・)自由貿易主義の決定的な間違いは、国民経済の視点を欠いていることだ。」(96頁)


内田さんは続ける。

下村は自由貿易で国内産業が壊滅したチリとインドと清朝中国の例を挙げている(存命していたら、2008年のメキシコの食料危機も例に挙げただろう)。
そして、ハロッドの次のような言葉を引いている。
「完全雇用は自由貿易にもまして第一の優先目標である。完全雇用を達成するために輸入制限の強化が必要であれば、不幸なことではあるが、それを受容れなければなるまい。」(100頁)
続けて下村はこう書く。
「自由貿易とはそういうものである。決して、神聖にして犯すべからざる至上の価値ではない。
強大国が弱小国を支配するための格好な手段でもあることをもっとハッキリと認識すべきだ。」(100頁)


彼らは「自由貿易は完全雇用に優先する(なぜならば、自由貿易の結果、国際競争に勝利すれば、雇用環境は好転するはずだからである)」というロジックにしがみついている。
彼らが見落としているのは、自由貿易の勝利は、最終的にどの国の国民経済にも「義理がない」多国籍産業の手に帰すだろうということである。
「国民を食わせる」というような責務を負わず、「生産性の低い産業の分まで稼ぐ」というハンディを背負っていない多国籍企業が国際競争では勝つに決まっている。


「自由経済、自由貿易、効率化」を公理におけば、様々な帰結を「無矛盾かつ合理的に」導き出すことができる。だが、現実はこれだけで説明されない。
中野剛志氏は、こういった風潮に対して以下のように語っている。(ニコニコ動画、「中野剛志がブチギレているホントの理由」
より)

もっと極論を言えばですよ、何で、たかだか非効率だっていうくらいで、路頭に迷わなきゃいけないんだよ。おかしいだろう。だって、皆さんもそうかもしれないし、僕の近所だって僕の親戚だって、そりゃ働いてますよ。だけど、デフレでいろいろあるし、能力の問題だってあるから、一生懸命働いたって効率性なんて上がんないですよ。非効率だけれどもまじめに働いて、家族養って、子や孫を養って貯金しているんでしょう? 何でそれが路頭に迷わなきゃいけないんだよ。おかしいじゃねえかと。


これがコモンセンスというものだろう。また、日本国憲法の本旨でもある。すべての国民に健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を認め、その保証を国家に義務付けている。これは国民国家の目的なのである。
中野氏が上記のように言う背景には、単なる感情論ではなく、国民の利益を守るためには、そのような国家の機能を大切にしなければならないという基本的な認識がある。国家が国民の暮らしに心を寄せることをかなぐり捨ててしまえば、もはや強者必勝の経済原理のもと、大多数の国民の利益は決して守られない。この当たり前のことを、グローバリストはもちろん、多くの政治家やマスコミの人々が理解できない状態にある。
この背景には、国家や民族に対する戦後世界の認識の混乱があると僕は思っている。この混乱は戦前の幼稚な国家主義への機械的反発によって起動され、冷戦下の日米同盟のもとで放置され、ソ連崩壊後の「ボーダーレス」幻想の下で基層に刷り込まれた。だが下村治氏はこのような混乱から自由であったのだ。だからこそ戦後の経済政策の成功を支えることができたのだろう。
この記事へのtweetを見ているが、多くの人々がこの記事に共感を表明していること、また、この記事から「国民経済」という基盤を公理においてもいいのだ、ということを認識していることがわかる。心強い!
僕は左翼だけれど、この情報拡散します
11月4日にデモが予定されています。
11/4(金) TPP絶対阻止!国会大包囲!国民行動
多くの人が参加してほしいと思います。
世論に強い確信を与えた中野氏の論鋒
昨日も書いたけれど、2chとかで行われている反TPPの論調は今回非常に強靭に理論武装されている。簡単には水掛け論にならない。バックボーンには明確に中野氏らの議論がある。
中野氏の明確な論証はしかも、現象レベルだけでなく、本質レベルにおいて、「新自由主義」とか、「自由貿易万能主義」といったものから自由になることの必要性を、人に理解させる力を持っていた。
時には中野氏を根拠を挙げることなく「素人」呼ばわりしたり、「馬鹿」呼ばわりする論者も出てくるが、それらの論者の多くは、中野氏が「新自由主義的」でなく、「自由貿易万能主義的」でないから、おかしいことを言っているかのように思っているに過ぎない。彼らにとっては「新自由主義」や「自由貿易」はアプリオリな真理なのだ。

「輸出でも日本のメリットはほとんどない」と反対派に論証されると、「ならばなぜ経団連が賛成するのか」、と反問し、反対派の議論が矛盾しているかのように言って勝ち誇る賛成派もいる。こんなことで勝ち誇れるのは、TPPの問題を農業輸入対工業輸出の枠組みにとらわれてみているからだ。
TPPは米国主導で世界の仕組みを経済強者たる多国籍企業にいっそう有利な方向に作り替える作業の一環だ。労働市場をとってみても、安い労働力を世界からかき集めることが可能になる。巨大企業が国家の(したがって人々の!)上に立って社会をコントロールできる立場に立てる。経団連がTPPにこだわるのは、それが彼らの利益にこのように根本的に合致しているからだ。アメリカの関税が下がるかどうかなんてことは実のところ経団連にとってもハナからどうでもいいことなのだ。

今回のTPPに関する正義は現在自覚的に一生懸命反対の論陣を張っている無数のネラーたちの側にある。野田が協議に参加するというのなら、それはとりもなおさず反対派のネラーたちの言うように、条約への参加へと自らを縛り付けることになるだろう。そして条約に参加をすれば、これもまた反対派のネラーたちの言うように、米国と多国籍企業の言うがままになることによる困難を日本国民に強いることになるだろう。国民を挙げて支えようとしている東北の復興に更なる足かせをはめることになるだろう。
今の反対論は個人的経済的困難への呪詛だけで構成されているものではない。そもそも民族の自由とは何か。また、国家主権とは何かという根本問題をわきまえて論じられている。また、経団連や米国という存在が、日本国民の利益を踏みにじることがあることを見据えている。だから、こういう強固に確信を持った世論を無視して野田がその道に踏み込んだとき、現実となったTPPの姿にさらに確信を深めた本質的な批判派が、そこに生まれることになるだろう。能天気にTPP賛成を唱えたすべての言論人は反省を迫られるだろう。たとえTPP交渉に参加することになっても、たとえまた政治家たちが腰砕けになって国会批准がなされたとしても、この批判派の力に遠からず跳ね返されることになるだろう。

現在2chをにぎわしている反対論は、いつものものとは質が違うことに、賛成派は気付くべきだ。


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わにぞう

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  • 理系研究者です
    自転車で遠くに行くのが好きです
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