わにぞう日記
日常のなかでいろいろと見たり考えたりします。でも、多くは忘却してしまいます。何かの時に思い出せるように。交流の中で意見が深められたり変わったりするのもおもしろいですね。
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東日本大震災復興構想会議「提言」の「美文」
復興構想会議の「提言」を読んでいる。想像以上に違和感を強く抱かされるものであった。今この時点で被災地に住む方々が直面していることに愚直に付き合うことが大切だと思うのだが、復興構想会議の提言にはその姿勢が驚くほどない。十分検討はしていないのだけれども、このままこの「提言」を振りかざして「復興」が語られるのはやばいだろうと思う。意見を表明しておく。

<前文>
祈りにも似た美文。と言いたいところだが、耳あたりの良い抽象的な言葉をつなげていながらも極めて多義的で、具体論がない。「支える」「希望」「つなぐ」「共生」。
ところが、ところどころに奇妙なロジックが暗に埋め込まれていて違和感を持つ。たとえば

被災地の人たちは、「つなぐ」行為を重ねあうことによって、まずは人と自然の「共生」をはかりながらも、「減災」を進めていく。次いで自らの地域コミュニティと地域産業の再生をはたす。「希望」はそこから生じ、やがて「希望」を生き抜くことが復興の証しとなるのだ。


なぜまず「減災」をまず進めるのだろう。生きるのに必死の被災地の人々は、まずは生活の再建を目指すのではないのか。減災をまず押し付けるのはどういうことなのか。災害への対策は現地の人の課題なのか。率直に言ってわけが分からない文章である。

そもそも、自衛隊をはじめとする全国から集まった人々の献身的な救助活動は、まさにつなぎあい、支えあうことのみごとなまでの実践に他ならなかった。


なぜ最初にあえて自衛隊員への賛辞から始まらなければならないのか。また、なぜ続いてボランティアなのか。危機に際して仕事で派遣される自衛隊員の活躍を否定するつもりはないが、現地で右往左往しながら必死に持ち場を守っている幾万もの一般の人々や地方公務員の人たちをこそ僕はたたえたい。
そして、この災害を「戦後」というものの否定一般に包み込み、個別具体的な責任の所在や対策の戦略的方向性に関する議論を覆い隠している。

実はどの切り口をとって見ても、被災地への具体的処方箋の背景には、日本が「戦後」ずっと未解決のまま抱え込んできた問題が透けて見える。その上、大自然の脅威と人類の驕りの前に、現代文明の脆弱性が一挙に露呈してしまった事実に思いがいたる。われわれの文明の性格そのものが問われているのではないか。これ程大きな災害を目の当りにして、何をどうしたらよいのか。われわれは息をひそめて立ちつくすしかない。


復興という具体的な問題に対するたたかいの文書としては、あまりにもセンチメンタルである。戦後の一億総ざんげと同じで、現代文明の脆弱性や大自然の脅威、人類のおごり、戦後の否定が唱えられ、具体的な問題の提起ではなく、巨大な壁を前に思考停止した姿だ。
具体論は後に続くということかもしれない。それを前提とした前文に、「減災」の重要性を盛り込んだのだというのだろう。あるいは、今回の災害の原因を個々の問題点に求めるのはやめて今の社会システムそのものに帰すことが大切だというのだろう。ぼくはこれらの「論」を懐疑するが、その「論」自体は百歩譲って認めてもよいかもしれない。だが、そういう慎重な吟味の必要な結論を、美文の中に密かに織り込ませるような方法を僕は嫌悪する。だからこの前文は不気味である。

「本論」の第1章「新しい地域のかたち」の(1)序では、災害の具体的諸相の検討ではなく、抽象的に、人と人とを「つなぐ」ことの大切さを説く。被災地の人々は無力で、「つなぐ」専門家の育成が必要だと説く。医療・福祉・ケア・科学技術の専門家による人材育成を説く。そして特に、「人と人とを『つなぐ』専門知識や技能を持つ人材が望まれる」のだと説く。また、災害は起こるものだということを前提とした「減災」の考え方の重要性を説く。
これらの論は非常にイデオロギッシュだ。減災の考え方が重要なことは間違いない。また、互いに助け合いながら災害に立ち向かうことが重要であることは当然のことだ。だが、時には防災の姿勢に立ってこそ生命財産を守り切れる局面もある。また本来的に防災は減災を含んでいる。これまでの防災の考え方がまったく無意味であるかのような主張には与したくない。非常に新しい切り札であるかのように「減災」が主張されるが、「減災」の考え方自体は昔から自然に取り入られてきたことではないか。津波があったら逃げることが当然の対策であった。これは災害を完全に防ぐことなどハナから意図していないことを意味する。実際のところこの文書で提示されている対策は、これまでの対策の延長線上のものである。だからこそ本来、これまでの対策の具体的な再検討を行うことに鍵がある。ところが、この文書はまず「減災」ありき、「つなぐこと」ありきだ。文章としては美しいかもしれないが現実問題の具体的検討がなく、結論もありきたりであり、無内容である。
高齢化やくらしやすさ、景観問題、環境問題、公共交通問題、省エネルギー問題、防犯問題などに配慮したまちづくりを行うといっている。再生可能エネルギーと生態系の恵みを生かす地域づくり、次世代技術等による産業振興、地域資源の活用と域内循環。地域の自給力と価値を生み出す地域づくり。来たるべき時代をリードする経済社会をここに作るといっている。夢のような未来。だが、いったいどうやって? 震災前にできなかったことがなぜ今できるようになると信じられるのか。呆然とするしかない。
ここでも震災前の諸問題の問題性の分析がない。リセット後の世界を自由に設計する立場からの文章であり、どこかうそ寒い。
類型が続く。ところが一般論であることから思考の遊びの域を出ていない。ごくごく一般的に成り立つ限られた認識が並べられているに過ぎない。

いずれにしても、復興へ向けた議論の問題点として感じるのは、普通に人が生活をしている状態を支える物質的基盤に関する議論の欠落である。合意作りや人のつながりといったものに非常に多くの字数を割いている。しかし、こういったものは、生活の物質的基盤の上にこそ確立する。農漁民は安心して自らの生活を支えられる条件を。市民は人間らしい生活サイクルを持った暮らしを営むことができる条件を。お年寄りは生活の心配をしなくてもゆっくり生きられる条件をつくることが、それぞれの実情に合った人の自然なつながりをはぐくむのだ。いろいろのテクニックやら、公的主体や民間のノウハウやらといったものでつくろうものではないのだ。
その意味では、現在ある、震災以前からあった諸問題に生活基盤から取り組むことこそが大切なのだが、この復興会議の議論は、震災以前の分析を放棄し、リセットされた地域の上に新しいものが造れるかのような幻想を振りまいているように感じられる。
むしろ危険な代物ではないかと直感は訴えている。
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