わにぞう日記
日常のなかでいろいろと見たり考えたりします。でも、多くは忘却してしまいます。何かの時に思い出せるように。交流の中で意見が深められたり変わったりするのもおもしろいですね。
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静岡県知事の八つ当たり
みっともないやつあたりだね。
全国学力テストで静岡県の成績が悪かったから、点数の低かった学校の校長の名をさらすんだってさ。
ははは。しょうもな。

川勝平太静岡県知事については以前からまったく期待していない。国際協力が一つの関心分野で、青年海外協力隊を天まで持ち上げて、若者を送りこんだら鍛えられるという教育論をぶっていたことがある。何か自分が正義だと信じたものがあるとそれを天まで持ち上げて、自分が悪だと信じたものがあると徹底的にたたくだけの人だ。今回は、成績の悪かった学校の教師集団を悪だと信じ、そこの子供の側に「正義」を見出し「同情」の対象としただけのこと。ほとんどまともな議論に値しない。

だから校長先生、さらされたって何にも負い目に感じることはない。勝手にさせといたらいいさ。尻馬に乗って先生のことを非難する奴らもいるかもしれないけど、しょうもないからほっとけ。見ている人はきっちり見ている。
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内田さんから「学校教育の終わり」のお知らせです
タイトルのフレーズには一つの既視感が張り付いている。そう、中野剛志の情熱大陸動画「ルール策定は政治力で決まる 米韓FTAよりひどいTPP交渉となるだろう」のニコ動での紹介タイトルである。そこには「中野剛志さんから日本終了のお知らせです」とあった。TPPにのめりこむ日本の状況を解説したものであった。今度は内田さんから、日本の学校教育の終わりのお知らせがあった。先を見通せる人々からは、そういう状況に現代の日本はあるのだということだろう。
内田さんが「学校教育の終わり」のなかで、日本の学校教育になぜ終わりが来たのかについて、以下の通り解説している。ほぼこれに尽きている。

近代の学校教育が「国民国家内部的」な制度である以上、学校教育の衰退が国民国家の衰退と歩調を揃えるのは当然のことである。


教育制度は教育基本法において日本の国民を作るために教育を行うと書いてある。だが、この国家の目的そのものがグローバリストに簒奪された。そのため、日本の国民を作ることの目的は公民を作ることではなくなり、そしてそうなって相当の年月がたったということである。
内田さんがずっと喝破してきたとおり、このような状況を内面化した子供たちが下流化するのは実は理の当然なのであった。そして、いかにグローバリストの目的たる国家の目的に沿う教育改革を行うのか。そのことに血道を上げてきたのがこの間の経過である。

繰り返し言うが、学校教育は国民国家内部的な「再生産装置」であり、ほんらい自己利益の増大のために利用するものではないからである。
残念ながら今の日本の支配層の過半はすでにグローバリストであり、彼らは「次世代の日本を担う成熟した市民を育てる」という目的をもう持っていない。


公教育にはすでに公の矜持は失われた。学費の受益者負担原則がそれを裏書きしている。

それがまた蘇るだろうと私は思っている。隣人の顔が見え、体温が感じられるようなささやかな規模の共同体は経済のグローバル化が進行しようと、国民国家が解体しようと、簡単には消え失せない。そのような「小さな共同体」に軸足を置き、根を下ろし、その共同体成員の再生産に目的を限定するような教育機関には生き延びるチャンスがある。私はそう考えている。そして、おそらく、私と思いを同じくしている人の数は想像されているよりずっと多い。


同意できる。共同体に教育は何ができるのか。この公の矜持を取り戻すしかないのだろう。だがこの部分に関してもグローバリストの側の教育改革は触手を伸ばしているはずである。たとえば具体的には、COC(Center of Community)の役割を大学に持たせようとしている。この内実は何か。そこをよく見極める必要がある。

何はともあれ僕は公的な教育機関で教育に携わっている。僕は教育機関は国家の有権者を作るほんとうに大切な役割を持っているという教育基本法の骨格としての理念を大切にしたい。国家がいかにグローバリストと多国籍企業に簒奪されようとも、直接的に責任を持つ日本の国民に対して忠実に、本当に地域で必要とされる人を作ること。さらに、地域を公を支える者に内側から変えていくことをめざし、国家の側からの教育改革プランの逆手を取って、本当にやりたいことをやり遂げていく動きを作りたいと思う。
内田さんの教育観
いつもながら感心させられるので、内田さんのページを紹介。
「平松さんの支援集会で話したこと」(内田樹blog)より。
どうしてわれわれの世代は周りの友人たちと大きな視点から社会や周囲の問題を語り合うことを徹底的に避けるメンタリティーを持つにいたったのか?

これはまさに教育に競争原理と市場原理を持ち込んだことの結果です。閉鎖集団内の相対的な競争の優劣にだけに子供たちを熱中させたことの結果です。そのせいで、お互いに足を引っ張り合い、お互いの学力を下げることに懸命な子供たちが大量生産された。 
彼らを学習させるために、市場原理主義者たちは「自己利益」を道具に使いました。「勉強するといいことがあるよ」と利益誘導した。勉強すると、高い学歴が手に入るよ、いい会社に入れるよ、高い年収が取れるよ、レベルの高い配偶者が手に入るよ・・・というふうに教え込んだ。自己利益の追求を動機にして学習意欲を引きだそうとした。その結果何が起きたか。
たしかに子供たちは「努力」するようにはなりました。でも、それは学習努力じゃありません。「最低の努力で最大の結果を出す」ための、費用対効果のよい勉強の仕方をみつけるために知恵を絞った、ということです。「勉強しないで、勉強したのと同じ結果が得られる、もっと楽な方法」を見つけ出すための努力です。
一番確実なのは、まわりの子供たちの学習意欲を殺ぐことです。勉強なんかすんなよ。くだらねえことやめろよ、と説いて回る。この「まわりの子供に勉強させない」ために今の日本の子供たちが割いている努力は半端なものではありません。それだけの努力を自分の学習に向けたら、ずいぶん成績だって上がると思うのだけれど、それでは費用対効果が悪いから、やらない。だって、問題は費用対効果なんですから。


ここ数十年にわたって吹き荒れた教育観を一度洗いなおす時期に来ています。

教育というのは自己利益のために受けるものじゃない。君たちは次世代の集団を支えるフルメンバーにならなければならない。私利の追求と同様に、それ以上に「公共の福利」に配慮できる公民にならなければならない。僕たちは子供たちにそう言わなければならないんです。でも、今の子供たちは、「公共の福利」なんて言葉を聞いたら、たぶん鼻で笑います。われわれは30年かけて、「公共の福利」とか「社会的フェアネス」とか「市民的な成熟」と言った言葉を鼻で笑うような子供たちを作りあげてきたんです。いい加減、もうそういうのは止めなきゃいけない。


そして27日に問われる維新の会の教育観はどういうものか。

教育の目的は競争に勝つことだと書いてあります。競争に勝てる人材を育成することだ、と書いてあります。彼らは「激化する国際競争」にしか興味がないんです。だから、教育現場でもさらに子供同士の競争を激化させ、英語がしゃべれて、コンピュータが使えて、一日20時間働いても倒れないような体力があって、弱いもの能力のないものを叩き落とすことにやましさを感じないような人間を作り出したいと本気で思っている。そういう人間を企業が欲しがっているというのはほんとうでしょう。できるだけ安い労賃で、できるだけ高い収益をもたらすような「グローバル人材」が欲しいというのは間違いなくマーケットの本音です。
だから、ここにあるのは基本的に「恫喝」です。能力の高いものだけが生き延び、能力のないものは罰を受ける。国際社会は現にそういうルールで競争をしている。だから、国内でも同じルールでやるぞ、と言っている。能力の高い子供には報償を、能力の低い子供には罰を。能力の高い学校には報償を、能力の低い学校には罰を。そうやって「人参と鞭」で脅せば、人間は必死になると思っている。人参で釣り、鞭で脅せば、学校の教育能力が上がり、子供たちの学力がぐいぐい高まるとたぶん本気で信じている。そんなわけないじゃないですか。それはロバを殴ってしつけるときのやり方です。子供はロバじゃない。子供は人間です。


この教育基本条例は、案のままになるにせよ実現するにせよ、古い教育観のマニフェストとして、数年後には審判が下ることでしょう。
大阪府教育基本条例案を見てみる
とりあえず見てみるところから。

(基本理念)
第2条 府における教育行政は、教育基本法第2条に掲げる目標のほか、次の各号に掲げる具体的な教育理念に従ったものでなければならない。
  三 他人への依存や責任転嫁をせず、互いに競い合い自己の判断と責任で道を切り開く人材を育てること
  四  不正を許さず、弱者を助ける勇気と思いやりを持ち、自らが社会から受けた恩恵を社会に還元できる人材を育てること
  六 グローバル化が進む中、常に世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争に迅速的確に対応できる、世界標準で
    競争力の高い人材を育てること


「他人への依存や責任転嫁をせず、互いに競い合い自己の判断と責任で道を切り開く人材を育てること」が大切だと僕も子供のころは思っていたかなぁ。でも、自分の能力だけで物事を切り開くなどという突っ走りがいかに迷惑なものであるかをほどなく学んだように思う。この条文「三」を単に素晴らしいと言う人がいるとしたら、相当幼いか、本当に社会の中で(あるいは学校の中で、でもいい)、みんなで何かを成し遂げたことがない人なのではないか。
機能する組織というものは、僕の経験から言うと、それぞれがほかの人に依存をし、互いの責任の在り方を分担し、それでも互いに助け合い、自己の判断と責任だけで暴走せずにマメに相談し、みんなで道を切り開くものだ。この条文「三」みたいな人を大量生産するのはやめてもらいたいものだ。
もしかすると、この条例を欠いた人々は、学校ではそういう人々を育てておいて、社会に出てからそういう人間観、組織観を打ち砕かれてまともな社会人に成長することを予定している、ということなのかな? とうがった見方をしてみたりする。えっと、そういうことなの?
「社会から受けた恩恵を社会に還元できる人材」という。要するに、個々の国民と社会の関係はイーブンイーブンであるべきだと言っているのである。お返しいただけない迷惑な人が生じないような社会が、この条例案の理想なのだ。そして例によって「グローバル社会だから」の呪文を持ち出している。そしてまた競争力だ。

個人の自由な競争によって成長する社会。このようなおめでたい人間像、社会像は無効化しつつある現代の目から見ると、ものすごくレトロスペクティヴなものだ。平成の入り口のころの風潮から何も進歩していないらしい。当人たちは世界の先端を走っているつもりでいるから、困るのは周囲だ。

第5条  府における教育行政は、教育委員会の独立性という名目のもと、政治が教育行政から過度に遠ざけられることのないよう、選挙を通じて民意を代表する議会及び知事と、府教育委員会及び同委員会の管理下におかれる学校組織(学校の教職員を含む)が、地方教育行政法第25条に基づき、適切に役割分担を果たさなければならない。


これぞ機械的民主主義。良識的な人ほどこれに反論しにくいだろうからきっちり考えておく必要がある。なぜこのような「民主主義的な」主張が問題なのか。かつて教育基本法改定にかかわって論じたエントリー「教育基本法改定に反対する」で論じたものを引用しておく。

国家が国民の育成のための教育内容に関してなんらかのビジョンを持つことについてわにぞうは決して否定しない。しかし、このビジョンに沿って行政が教育に関わっていく際には、慎重な態度が求められる。政治には常に独特な力学が働いている。教育が重要であるからこそ、政治からの教育に対する要求もきわめて強いものがある。この激動・変転する政治力学に教育を直接さらしてはならないとわにぞうは考える。最悪なのは、政権の都合で子供の持つべき資質が一面的に押しつけられることや、短期的な視点で教育内容がクルクル変わることだ。こういう事態からは教育を守らなければ、次世代に対する取り返しのつかない損失を生み、国の発展もおぼつかない。
現行教育基本法はこういった認識のもとで、教育とは国家や行政の道具ではなく、国民に直接開かれて行うものであることを宣言している。そして、第10条で「不当な支配に服することなく」と規定する、という手段で、行政側からの不当な干渉の危険から教育を守る方法をとっている。この不当な支配の主体には限定がなく、第2項と合わせて解釈すれば、政府等もこれに該当すると判断できる。
政府改定案はどうか。この法案は行政機構については性善説に立っており、「自主性を尊重(第7条(大学教育)・第8条(私立学校)など)」などといった留意事項がごく一部にあるものの、法律の範囲内で、政府・地方自治体の裁量によって自由に教育行政を実行できる構造になっている。第10条の改訂になる第16条で「法律の定めるところにより」と規定することによって「不当な支配」の主体から行政機構をあらかじめ排除している。こうして、最も巨大な力を持つ学外権力である行政機構に対する歯止めだけは取り払われている。
わにぞうには、政府案が採択された未来において、教育が時の行政によって恣意的に左右されるおそれを払拭することはどうしてもできない。かなり強い危機感を持って、この教育基本法改定案に反対せざるを得ない最大の理由はここにある。


なお、現行教育基本法では教師を直接国民にたいして責任を持つ存在として規定している。改定案ではむしろ法的に規定された教育行政を遂行する責務を持った存在ととらえらえる。わにぞうは前者の立場に立ってこそ教師の誇りは育つと考える。教育委員会の方を向いていじめを隠蔽する報告に汲々としている教育現場を見るにつけ、今回の改定案は百害あって一利なしだと判断せざるを得ない。


最後に、次の規定について。親が部活動に出ていくようになるんだそうだ。

2  児童生徒の保護者も、部活動をはじめとする学校運営に参加するなど、主体的に積極的な役割を果たすよう努めなければならない。


僕は中坊のとき、家庭の庇護から離れた部活という空間での戦いに誇りを持っていたように思う。ここに親が出てくるのは正直げんなりする。

まぁ今日のところはこれくらい。あんまり系統的によんだわけではないけれど、とりあえずろくな条例案じゃないな。
「教育再生」会議・出席停止をめぐって
ヤンキー先生が特に最初にこだわった論点は、悪質な場合にいじめる側の生徒の出席停止制度を活用するということ。この発想の背景には、一連のいじめ騒動における「識者」らの反応に対する怒りがある。中央公論一月号の座談会「いじめには出校停止処分を」で義家氏は言う。

いじめられた人間は、いじめた人間を教育しないと救済されないんです。その前提を飛ばして、今回メディアで発信された多くのメッセージのように、いじめられた人間に対して「もう頑張らなくていいよ」「もう学校に行かなくていいよ」と言うのはおかしいと思いますね。


いじめられる生徒が学校に行けなくなり、いじめる側の生徒がのさばるという現実。ヤンキー先生はそうやってはじき飛ばされてきた生徒たちも多く通う北星学園余市高校で学び、教えたのである。なぜ「識者」は、いじめられる生徒に学校からはじき飛ばされることを勧める気になれるのか。本来学校からはじき飛ばされるべきはいじめた側ではないのか。怒りを持つのは当然だろう。
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わにぞう

  • Author:わにぞう
  • 理系研究者です
    自転車で遠くに行くのが好きです
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