憲法は守るべきか変えるべきか。中国は信頼に足るのかまったくの反日国家か。政府は大きいほうがいいのか国民の自己責任に任せるのがよいのか。どうしてあらゆる問題で人びとは水掛け論に沈んでしまうのだろうか。 グループAとグループBの間に妥協のできない異なった結論が対立し、最悪の場合は互いに結論を押し付け合う。その場合に対立するグループはどう見えるか。明白な事実を認識しようとせず、あるいは明白な論理を認めようとせず、時には謀略的な思惑から、あるいは悪意から、正しいことを正しいと認められないけしからん輩だ。ということになる。 でも、そんなに上記の諸問題は明確な結論が得られるような問題なのか? まず「単純な事実」すら、検証は難しい場合がある。たとえば中国政府や中国の人びとの本当の思惑なんてどうやってわかるのか? 可能性としては果てしなく邪悪な政府と邪悪な国民の塊かもしれない。可能性としては品行方正で平和を愛する人びとなのかもしれない。ここにおいて、さまざまな可能性の全体を視野に入れて、論争の全体を見渡せる資質が非常に重要だと思う。 今月の内田樹先生の新潮45の論文「言葉なき政治の貧困」に、わが意を得たりと思った一説があったので忘れないうちに引用しておきたい。
政策についての議論の目的は、ある政策についての国民的合意を形成することです。そして、国民的合意というのは「国民全員が同じ意見」であるということではない(そんなことはありえません)。・・・国民的合意というのは単一の命題のことではないからです。いつも申し上げていることですけれど、政策上の意見が対立するのは、ほとんどの場合「未来予測」が論者によって違うからです。・・・だから、論者それぞれの異なる未来予測の違いが、意見の対立になる。未来のことは今はわからない。だから、未来がどうなるかによって正否が変化するタイプの議論(すべての政論はそうです)について、現在「正解」を決定することは原理的にできないのです。 ですから、「私だけが『正解』を語っている」という主張をなすことは、それ自体が原理的に間違っているのです。
良心の問題としてはまったくそのとおりだろう。ことは時間軸ばかりではなく、空間軸に関していっても、良心同士のすれ違いが生じうる条件は山ほど転がっている。先日来「超左翼おじさんの挑戦」というブログを紹介しているが、このブログの魅力は、「右・左」という対立が生じる論点の全体を視野に入れながら、本当に大切な問題はどこにあるか見極めたいという意図を強く感じるからである。 ここで、「本当に大切な問題」とは何か。たとえば人間の良心を超えた経済や政治のメカニズムは存在するわけで、その意味ではニュートラルな理論の競合というモデルだけでは不十分だろうと思う。つまり、良心同士のニュートラルな、残念な対立を解きほぐしながら、本当に重要な対立をあぶりだしていくことが「大切な問題」なのだ。
内田先生の論文でもうひとつ紹介しておきたい。「蔓延する最適解マインド」というキーワードで、日本社会の病理を言い当てようとしている。このあたりも非常に共感をした部分である。
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