僕の大ファンである森達也が、やはり最も注目する一人である中島岳志氏と対談をしている。 なかなか多忙なので記事をゆっくり書いている時間はないので、気になったところをちょっと引用することにする。
非常に面白かったのは、パールは世界連邦論者で、世界連邦が形成されなければ、最終的には国際法というものは有効にならない、という発想なんですが、これに共鳴していた戦後すぐの日本人というと、戦前の右翼なんです。特に大川周明の周辺にいた猶存社系右翼。超国家主義というのは、国家を超えていくイマジネーションを持っていたからこそ、アジア主義というものを持てたわけですね。その人たちは戦後、代表的なのは下中彌三郎という平凡社を創った人物、あるいは南京大虐殺はなかったと主張されていた田中正明さんもそうですが、彼らはどちらかというと日本社会党に近いところにいた。「戦争放棄」や「核廃絶」を強く主張していた。
60年代以降に保革の対立というものがある種概念化されて、歴史が展開していったのだと思うのですが、我々はどうも、戦前から戦後すぐの歴史に対して、後で出来た右左対立の軸とか枠組みを、演繹的にそこに投射して歴史を見ようとしているんのではないか。そうすると、そこからこぼれるものというのがたくさん出て来るんですよね。なぜ戦前の右派と言われた人たちが世界連邦論を戦後唱えたのか。逆に1950年代にナショナリズムを一生懸命唱えていたのは左派です。そういう問題をどういう風に見ていくのか。それは今の軸からは漏れていくのですが、逆にそこに豊かさがあると思うんですよ。それを見たいと思ったのが、『パール判事』を書いた縦糸のもうひとつでした。
この問いにわれわれはきっちりとした回答ができるだろうか。少なくとも固定された「左右」対立の世界観から自由にならなければならないことは間違いないだろう。それぞれの思想を多次元の価値空間の中で評価することが必要である。
もうひとつ、論理ではなくてひとつのなんということもない事実の持つ力を感じる次のはなし
ボースは1930年代に日本の軍事力を使ってアジアを解放する、インドを解放するという路線に大きく転向していくんですけれども、その時に日本人の軍人たちとよく宴会を開いています。宴会に行くとボースはすごくお話のうまい人で、日本人をすごく喜ばせたんですね。オヤジギャクとか言ってるんです。ものすごく面白いダジャレを言った。そういうところが日本人にすごく気に入られて、日本人よりも日本人らしいと。彼はそうやって宴会をおおいに盛り上げて、天皇陛下万歳、大日本帝国万歳、とやってその宴会を締めるんですね。
それで家に帰ろうとするんですけれど、ボースは帰れないんですよ。なぜかというと、自分の妻はもう亡くなっている。1920年代の後半に奥さんはなくなりました。自分の息子と娘は中村屋の方に預けられている。彼は一人で原宿に住んでいたんですけれど、とぼとぼと一人で帰れない、帰りきれないんです。そうすると彼はその秦学文を電話で呼んで、銀座の片隅のお店に行くんですね。そして二人で酒を飲んで、いつも泣いているんですよ。この涙というのはなんなのか、というのが一番引っかかったところだったんです。この涙を、右の物語と左の物語がはたして掬えるのか、という思いがすごくあったんです。ボースはイギリスを倒すために日本軍と手を結ぶわけです。しかし隣の在日コリアンの親友にとっては、まさに自分が頼りにしている日本がイギリスのような存在であるわけですね。解決できないような矛盾と苦悩を抱えているわけです。なんとか生きていかなければ、現実はよくならない。しかしもしかすると、自分のやっている行為が隣の友人には大きなプレッシャーになるかもしれない。こうなるともう泣くしかなかったんですね。このアジア人二人が銀座の片隅で流している涙というのが、僕にとっては歴史のすごいリアリティだったんです。
この対談については、またよく考えてみようと思う。
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